ただ単なる形態と色彩の組み合わせがあり、ただ文章があり、ただ音がある。それが表現の理想であり、それがすべて。
表現しない表現としての 絵画、小説、評論、他。限りなく無に近い絵画。
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牽強付会
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攪乱をめぐって
どこでもない場所でv2 どこでもない場所で
どこでもない場所でv2
001
 どこでもない場所で、書き継がれる言説。それは、現実でも虚構でもなく、そのはざまで書き継がれる営為だ。そこで語られることは、現実でもあり虚構でもある、曖昧で不鮮明な磁場だろう。だから、重複するけれど、まずは絵画について語られなければならないだろう。

 絵画の真実とは何か。そんなものは存在するのだろうか。急にこんな疑問が私の頭から離れなくなった。特に主張やヴィジョンが確固とあるわけではなく。ただ、漠然と、絵画の真実とは何かという曖昧な想念に私は突然に支配されたのだった。
 たとえば、映画とは馬の映像を馬だと詐称することだと言ってのけたゴダールを持ち出すまでもなく、絵画もまた馬の表象を馬だと詐称する虚偽・虚構の芸術にほかならない。それは真実ではなく、虚構なのだ、それが絵画の真実なのではなかったか。
 そのようにして絵画は常に真実だと詐称し続けて来たからこそ、ルネ・マグリットはパイプの絵を描いて「これはパイプではない」とそっと囁いたのだろうし、ヨゼフ・コスースは本物の椅子と椅子の写真・辞書の定義をひとつの壁に並列して見せたのではなかったか。それは、絵画こそ虚偽・虚構の装置なのだと、控えめに彼らは主張したのだと私には思われて仕方ない。
 絵画の真実とは何か、果たして絵画に真実はあるのだろうか。それは質問自体が間違っているだろうか。
 絵画は常に人を騙して来た、それが真実だ。あるはずのないものをあるものとして描き、見るものを信じ込ませて来たのだから。その罪状が戦争画として日本の最近では語られはしなかったか。いつだってそれが真実だという表情・身振りで絵画は虚偽・虚構を隠蔽して詐称して来たのだ。それは潔い姿なのか。たとえAV女優がどれだけあえぎもだえ、あそこを濡らしまくろうが、これは虚構だと言い兼ねないアダルト・ビデオとは雲泥の差だ。
 常に、絵画は、真実だという表情しか持たない。それが絵画の真実だ。虚偽・虚構が真実なのだ、それが絵画だ。
 虚偽・虚構とは何か、それはないものをあるといい、あるものをないといい、単なる画像を食べられると言い募ることにほかならない。その典型が絵画だというのは言い過ぎだろうか。しかし、ドラマや演劇もまた同様だろう。試しに演劇やドラマで、演じる者たちが役名ではなく、芸名や本名で演じたらどうなるか、多分、役柄という虚構と、自身である芸名・本名が錯乱し合い混乱するのではなかったか。
 常に表現とは、虚偽・虚構の装置なのだ。絵画が悪者というわけではない、絵画がその典型だというだけのことだ。

002
 絵画とは、虚構・虚偽の装置の別称である。それは、音楽も同様ではなかったか。
 たとえば、テクノやアンビエントのぐしゃぐしゃの音楽や、ステーヴ・ライヒの『ドラミング』『クラッピング・ミュージック』を聴けばそれが明確になるだろう。そこではメロディーやハーモニーは極力ミニマル化し、リズムよりもビートが優先され、激しく、または静かに紡ぎだされる。そこでは、音楽がいかに構造化された情緒の装置として君臨しているかが明確化されるだろう。たとえばジョン・ケージの「4分33秒」を思い出せばいい。そこには音楽ホールという環境と、音楽という時間があっただけで、いかに音楽が構造化された情緒の装置と化しているかが暴露されていたはずだ。
 単なる音、単なる音楽、それが真実の音楽ではなかったか。だからこそテクノやアンビエント、音響派の作品は、何も表現しないのだ。ただ音だけが、ただ音楽だけがある。
 ただ、音だけが、音の組み合わせだけが、ある。
 それが音楽自身の密かな夢である。
 絵画もまた、単なる形態と色彩の組み合わせを密かに望んでいるのではないだろうか。
 何も表象しない、単なる絵画。シニフィエを疎外したシニフィアンだけの絵画といえば良いのだろうか。色彩も形態も、具体的な対象を表さず、情緒的な感情や情念を象徴することもない、単なる形態と色彩の組み合わせだけの絵画。悦楽的な、ただ存在するだけの、絵画。それが絵画の真実ではないか。それは、虚偽・虚構の装置であることから自ら脱却することでもある。真実の絵画に。
 ただ、単なる形態と色彩の組み合わせだけが、ある。
 それが絵画自身の密かな夢である。

003
 しかし、絵画の真実が、具体的な対象を表さず、情緒的な感情や情念を象徴することもない、ただの単なる形態と色彩の組み合わせだけの絵画であり、悦楽的な、ただ存在するだけの、絵画なのだとすれば(音楽も同様だろう)、小説はどうなのだろうか。そう、小説もまた恐ろしくも虚偽・虚構の装置ではなかったか。だからこそ高橋源一郎は『さようなら、ギャングたち』『あ・だ・る・と』『日本文学盛衰史』と何作にも渡り、虚偽・虚構の装置にしか見えない作品を創り続けて来たのではなかったか。
 小説もまた虚偽・虚構の装置から脱却する手立てとして、書かれた単語も文章も、具体的な対象を表さず、情緒的な感情や情念を象徴することもない、ただ書かれただけの、悦楽的な、ただ存在するだけの、もちろん文脈なども不在の文学を目指さなければならないだろう。それが文学の使命なのだ。絵画に限ったことではない。
 そこには、いや、結論を急ぐのは控えよう(というか、既に結論は出てしまっているが)、これからは、一つずつ論じて行く必要があるだろう。
 真実に向けて。
 常に音楽も、小説も、絵画も、表現のパターン(それは、いくつもの技法や手法の際限のない組み合わせによるものにほかならない)に基づいた虚偽・虚構の装置にほかならない。そうであるからこそ、ここから何が可能かと問わねばならない。
 否定形が好きだ。たとえば表現しない表現。たとえば描かないことで描くこと。絵画ではない絵画。音楽ではない音楽。小説ではない小説。ないものねだりということだろうが、否定形が好きだ、何よりも。それがゴスの精神だと自分では勝手に解釈しているのだけれど。解釈しない解釈?

004
 表現しない表現、それが理想だ。大げさな表現も、緻密な表現も今はもう必要ない。単に何も表現しない表現(きっとそれはゴス的表現ではないが、精神的にはゴスそのものとしての表現であるはずだ)。表現しない表現、それが絵画の・小説の・音楽の真実であり、理想なのだと思う。単なる形態と色彩の組み合わせ、それが美の・美意識の理想であり、最終形態である。
 表現しない表現。
 それは、たとえばオウテカのような表現、オウテカのような絵画。
 それは、表現しない表現。
 それは表現しないことを理想とする表現。
 それは、虚偽・虚構の装置ではないからこそ真実である表現。
 あるがままの表現しない表現。
 絵画も、音楽も、そして小説もまた。
 沈黙に既に表現が宿っている。だからこそ、最小限の表現で表現は成立するのだ。
 最小限にこそ表現は冴える。

 単なる形態と色彩の組み合わせ。

005
 絵画とは、単なる形態と色彩の組み合わせを理想とする表層こそ絵画の理想だ。ただ単なる形態と色彩の組み合わせがある、それが絵画の真実であり、真実の絵画であるだろう。小説・音楽も、また。
 ただ単なる形態と色彩の組み合わせがある。ただ文章がある。ただ音がある。それが表現の理想である。
 ただ、単なる形態と色彩の組み合わせがある。それだけだ。限りなく無意識に近い無作為・非表現の絵画。物語もイメージもほとんど存在しないような、極限で繰り広げられる即興劇。ロラン・バルトが自分の絵画を浪費と名付けたような、悦楽的な、しかし、何も表現しない零度の絵画。絵画の真実、真実の絵画、それがこれから始められる絵画の定義だ。そこにこそ、絵画の真実、真実の絵画が現前するだろう。今は、そう信じている。
 ただ、単なる形態と色彩の組み合わせがある。それは、ただ単に色付けされた不定形態が幾つか組み合わされるだけの作品であるだろう。アクリルガッシュや折り紙、イラストレーターなどで、色付けされた不定形態が幾つか組み合わされるだけの作品、それが絵画の新たな理想だ。ただ、そこには形態と色彩の組み合わせがあるだけだ。何かが表現されるわけではない。無造作に色付けされた不定形態が幾つか組み合わされるだけだ、それが絵画の理想であり、絵画の真実・真実の絵画である。
 ただ、色付けされた不定形態が幾つか組み合わされる、それが新たな絵画の表現しない表現だ。

006
 芸術、絵画とは、はかないもの・どうでもいいものを擁護する営為、もっと言えば、はかないもの・どうでもいいものそのものだと言って良いだろう。私には、それが芸術や絵画の真意だと思われる。描かれてしまったもの、それが理想だ。構想も構成も計算もコンセプトも不要だ。さらに言うなら、写真は曖昧で不鮮明に撮られてしまったもの、または加工されたもの、それが理想だ。それが芸術の理想であり、すべてだと言って良い。しかし、今は、そんなものに居場所は確保されていない。強烈なイメージ、多義的で饒舌なものこそがもてはやされるのが常だからだ(それを思えば、アメリカに起こった抽象表現主義〜ミニマル・アート、コンセプチュアル・アートに至る流れは、一種の奇跡だったのかもしれない)。だから私の居場所はどこにもない(居場所が存在しないのなら、居場所を捏造するしかないだろう)。

 どこでもない場所で、書き継がれる言説。それは、現実でも虚構でもなく、そのはざまで書き継がれる営為だ。そこで語られることは、現実でもあり虚構でもある、曖昧で不鮮明な磁場だろう。そこで、私の居場所が捏造されるだろうか。

 芸術、絵画とは、はかないもの・どうでもいいものを擁護する営為、もっと言えば、はかないもの・どうでもいいものそのものだと言って良いだろう。私には、それが芸術や絵画の真意だと思われる。描かれてしまったもの、それが理想だ。構想も構成も計算もコンセプトも不要だ。さらに言うなら、写真は曖昧で不鮮明に撮られてしまったもの、または加工されたもの、それが理想だ。それが芸術の理想であり、すべてだと言って良い。

 すべては、ここから始まる、かもしれない、。

007
 絵画は、常に額に飾られて展示される。紙に描かれていようとキャンバスに描かれていようと、一般的に平面として描かれた絵画は常に額装されて展示される。私には、そこでは、絵画があると言うよりは、額があるとしか見えない(もっと極論すれば、壁であり、空間であるのだが)。
 ところで、額とは何か。それは絵画作品を保護する目的のためにあったものなのだろうが、私にはそうは見えない。それよりもあからさまに商品としてパッケージングされているという対外的な表明にしか見えないのだ。額装イコール芸術というあからさまな誤解に陥っているのが、絵画の現状のように見える(立派な額装ほど市場的価格が高いのは、その顕著な現象だ)。紙に描かれた絵画を画鋲で壁に貼り付けただけでも絵画は成立するはずなのに、そんな試みを実施している作家は、ほんのごく一部にしかいないだろう。絵画もまた商品以外の何ものでもないのが現状だ。果たして、それは芸術なのだろうか。商品に成り切らない、はかない試み、それが芸術ではなかったか。だからこそ、はかないもの・どうでもいいものそのものが芸術なのだ。
 額装をやめ、裸の絵画を展示すること、それが芸術の真の姿ではなかったか。
 芸術、絵画とは、はかないもの・どうでもいいものそのものだ。私には、それが芸術や絵画の真意であり、描かれてしまったものこそが理想だ。構想も構成も計算もコンセプトも不要だ。曖昧で不鮮明に撮られてしまったもの、または加工されたもの、それが写真の理想だ。それが芸術の理想であり、すべてだと言って良い。

008
 もっと描かねば、描きたい、そう思っても時間がない。表現しない表現を氾濫させることは、遥かに困難な実践なのだろうか。自分の要領の悪さを嘆くしかないのだろうか。うーん、。常にアーティストとしてだけ活動することに徹することの行動性も要領も営業力もない、それが自分の過去であり、現状なのではなかったか。今、いったい何ができるのか、何を変えられるのか。自己嫌悪しか取り柄がないとでも言うのだろうか、。しかし、どうしても、この表現しない表現を氾濫させて生きて行きたい、それだけが願いなのだ。あまりに自閉的かもしれないけれど、。

009
 ここでは、誰もがウインカーの存在を忘れているかのようだ。いや、もしかしたら始めから車にウインカーなど装備されていないのかもしれない。車線変更や右左折の際にもウインカー無視か、直前に1〜2回だけという危険な運転があまりに多過ぎるのが、この土地の現状だ。交通事故・死亡事故ワースト5にランクインするのも当然のことだ。途中で停車する際にもハザードランプなどほとんど無視。まるで追突してくれとでも言わんばかりだ。ここでは誰もが死に急いでいるのかもしれない。周囲を確認さえしていないようだし、運転中の携帯電話も日常茶飯事だ。自転車も同様。平然と逆走や2列並行する。携帯電話での会話やメールチェックにも余念がない。無灯火も当たり前。商店街では暴走を繰り返す。しかも、平然と逆走や2列並行する。携帯電話での会話やメールチェックにも余念がない。ここでは誰もが死に急いでいるのかもしれない。

010
 文字がひとつあるだけの文章作品。ひらがな、カタカナ、そして漢字。タイトルと内容がイコールの作品。それはそれで面白い試みではないか?

011
 どうして表現しない表現に憧れるのか。それは、自分にも分からない。ただし、曖昧に記憶にあるのは、マレーヴィッチの白地に白や黒の四角を描いただけの絵画作品、抽象表現主義やミニマルアートの幾つかの絵画作品を見て、それこそ絵画の強みだと感じたことだ。何も物語っていないか、最小限しか物語っていないのに、絵画が絵画として、または絵画以外の何ものでもない何かとして成立しているという事実に感動したのではなかったか。その頃は、文学や音楽では、このような表現しない表現は困難なのではないかと思っていたはずだ。なぜなら、そこでは物語だったり、メロディーとリズムやハーモニーだったりが不可欠だと思われたからだろうと今では推測するけれど。
 何も描かれていない絵画こそ理想ではなかったか。しかし、それでは絵画は成立しないからこそ、絵画が絵画としてギリギリに成立する「表現しない表現」こそ理想となるのだ。
 ただ描かれてしまった絵画。無に近い、ゼロに近い磁場で繰り広げられる絵画。形態、色彩、線。即興的に。計画的に。

012
 単なる形態と色彩の組み合わせ。

013
 非表象の表象。表現しない表現。曖昧で不明瞭・不鮮明。それが芸術、それが理想。

014
 ジャン・コクトーの監督した映画で、画期的な詩集として何も印刷されていない詩集が紹介されていて、それが理想に思えた。何も書かれていないが、詩集として成立する。何も描かれていないが、絵画として成立する、それは一種の理想だ。

015
 自分の居場所は、どこにもない、今のところは。自分の居場所を増殖させること。自分の作品で。今は、それが一番の希望であり、祈りであり、理想だ。画廊に、美術館に、書籍に、メディアに、自分の表現しない表現を増殖させ、溢れさせること、これだ、これしかない。では、どうすれば良いのか、それを描きつつ考えることだ、そうではなかったか。
 何も表現しない表現の氾濫。それが理想だ。

016
 アートは、ここにある。なぜなら、ここにアートはあるからだ。

 アートは、ここにある。

 表現しない表現を理想とする、単なる形態と色彩の組み合わせ。

017
 ただ描かれたもの。ただ描かれたもの。ただ描かれたもの。
 ただ描かれたもの。ただ描かれたもの。ただ描かれたもの。
 ただ描かれたもの。ただ描かれたもの。ただ描かれたもの。

018
 表現しない表現という理想で、まず思い出すのは、カシミール・マレーヴィッチとロバート・ライマンの絵画だ。
 マレーヴィッチのムラ塗りされた正方形や長方形。それは、マレーヴィッチの理想とする絶対主義だったのだと思うが、既に表現するという次元から逸脱しつつあるように私には思われて仕方がない。それは、黒や白の正方形や長方形をしか表現していないのではなかったか、そう思えて仕方がない。それは、私には表現しない表現である。果たして、表現などしているのか、マレーヴィッチは。ただ、ムラ塗りされた正方形がある。ただ、ムラ塗りされた長方形がある。それだけのように見える。マレーヴィッチ本人の意図から離れて。
 ライマンの白い絵の具でムラ塗りされた白い絵画。マレーヴィッチの位相をさらに発展させたのがライマンと言えるだろう。さまざまな支持体にムラ塗りされた白い絵の具やペンキ。それは白い絵画以外の何ものをも表現していないだろう。ただ白くムラ塗りされた絵画、これもまたマレーヴィッチと同じく、ただそれだけに見える。それもまた絵画の理想の一形態だ。同時期の作家として、アグネス・マーチンも忘れてはいけない存在だ。白いキャンバスに細い線が引かれているだけの見た目には単に白い絵画に見える作品。その美しさは、表現しない表現の類い稀で貴重な美しさと言えないだろうか。

019
 カシミール・マレーヴィッチとロバート・ライマン、アグネス・マーチンに近似する絵画として、ロバート・ラウシェンバーグの白い絵画、フランク・ステラの黒い帯のブラック・ペインティングをあげるべきだろう。それは、見えるもの以外の何ものも表現していないという理由で、絵画の理想の一形態といえる(フランク・ステラの「見えるものがすべて」)。
 ロバート・ラウシェンバーグのただ白く塗られた絵画。塗られた黒い帯に構造化されるシェイプト・キャンバスとしてのフランク・ステラのブラック・ペインティング。そこに描かれたもの、それだけがすべてなのだ。
 ただ描かれた絵画、ただ塗られた絵画、それが理想だと、ここでは言っておこう。

020
 稚拙でも構わない。
 表現しない表現、それが理想なのだ。

021
 ウイレム・デ・クーニングやマーク・ロスコ、バーネット・ニューマンもまた、表現しない表現としての絵画に近似する印象があるが、厳密には異なると言って良い。ここでの文脈から既に明白だろうが、彼らの絵画は具象的な何かを表現していなくても、必ず何らかのイメージを表現しようとして生まれた絵画だからだ。特に抽象絵画〜抽象表現主義の絵画の作家たちは具象的なモチーフを扱わないだけで、テーマやイメージとして何かの表現以外の何ものでもない(たとえば女のイメージだったり、神秘主義的理想だったり、深淵や崇高といった概念だったり。直線と色面だけの絵画に到達したピエト・モンドリアンでさえも自然や神秘主義的概念に拘泥してはいなかっただろうか)。ウイレム・デ・クーニングやマーク・ロスコ、バーネット・ニューマンも同様あり、それが、彼らの絵画に私はリスペクトしているが、彼らの絵画を愛せない理由だ。

022
 しかし、だからと言って、彼らの絵画をないがしろにすることは早計に過ぎる気がする。ウイレム・デ・クーニングの描きなぐったようなダイナミックな絵画、マーク・ロスコの深遠な色彩の広がり、バーネット・ニューマンの崇高で巨大なカラー・フィールドなどなど、抽象表現主義の画家たちの絵画は、表現しない表現の絵画と限りなく隣接していると言って良い。彼らの作品の意図を離れてしまえば、限りなく描かれてしまった絵画にほかならないからだ。アド・ラインハート、ジャクソン・ポロック、サム・フランシスなどなど、皆、限りなく描かれてしまった絵画であると言えないだろうか。そこに私は惹かれるのだ、表現しない表現としての絵画として。
 ピエト・モンドリアン、バーネット・ニューマンやフランク・ステラを極限に導いた作品として、ダニエル・ビュレンヌがあげられる。あのストライプだけによる作品を展開し続ける究極の美術家、ダニエル・ビュレンヌ。しかも単にストライプとは言っても作品の場に応じて変幻自在の展開を見せるから、その活動は徹底していると言って良いだろう。人はいつしかストライプを見たら、彼の作品にしか見えなくなりはしないだろうか。彼の作品には、見事なまでにストライプしかない。

023
 ダニエル・ビュレンヌをあげるのなら、カラー・フィールドの展開を延々と繰り返すエルズワース・ケリーの存在も書き添えておくべきだろう。彩色された矩形の並列、微妙に変形された(彩色された)矩形の作品、それは、何かを表現しているとは思えない、単にそこに存在させられただけにしか見えない作品だ。表現しない表現の見事な強度が、エルズワース・ケリーの作品の魅力だと言って良いだろう。
 なぜなら、表現しない表現、それが絵画の理想だからだ。

024
 表現しない表現、それが理想だからこそ、日本に登場し、海外でも認知された“もの派”の作家たちの作品とは相容れない。彼らの作品は、最小限の素材(石や鉄板、木材など)を使い、その組み合わせにより、その組み合わせ以上の何かを表現もしくは象徴しようというのが根底にあるからであり、それが海外でも評価された所以ではあるのだが、表現しない表現とはいえないのである。彼らよりは、彼らの前世代である“具体”のほうが近いと言って良いだろう。彼らには表現しようなどという小賢しい目論見は存在しないからだ。その論旨からは、読売アンデパンダン展に出品された幾つかの作品も、表現しない表現と言えるのかもしれないとここでは記しておこう。

025
 言葉を信じられないからこそ、表現など信じられないのではなかったか。無垢な表現は小賢しく、恥ずかしい。単に描かれてしまった作品=単に表現されてしまった表現こそ、絵画であり、絵画の理想なのだ。
 なぜなら、表現しない表現、それが絵画の理想だからだ。

026
 夢見る頃を過ぎたら夢見ることだ。

027
 池田満寿夫の初期色彩版画が素晴らしい。池田満寿夫は不当に過小評価されていると思えて仕方がない。評論や小説を書き、映画を撮影し、陶芸までも手がけ、内縁の妻である佐藤陽子とヴァラエティ番組に出演したり、人生相談の番組にでたりしたからか。
 池田満寿夫は不当に過小評価されている。没後数年してようやく「池田満寿夫 知られざる全貌展」などという名称の回顧展が開かれたのが象徴しているだろう。
 彼の小説や評論がかなりあるはずだけれど、ほとんどが絶版のままであり、佐藤陽子編集の『愛のありか』がその片鱗をかいま見せてくれる程度だ(この本は内縁の妻である佐藤陽子が愛を込めて、彼の作品や文章をまとめたもの。特に初期の版画が秀逸。また、彼の著作から抜粋された文章の引用も貴重だ。池田と一緒になるかなり以前の佐藤陽子は華奢でバイオリンが良く似合う美少女だったのが、今も曖昧にだが記憶にあるけれど。ちなみに私のペン・ネームは、この著作から。池田満寿夫、もしくは澁澤龍彦)。

028
 何も表現することがないという表現、たよれるものが何もないという表現、出発点が何もないという表現、表現する力も表現したいという欲望もないという表現、しかも、絶対に表現しなければならないという強制だけはあるという表現 (サミュエル・ベケット)
東野芳明『ジャスパー・ジョーンズ』P189(美術出版社)より

 ユダヤ教の聖典である『旧約聖書』に登場する「モーゼの十戒」の中に、「汝、像を刻むなかれ」という戒があります。礼拝するための像をつくってはいけない。空を飛ぶもの、地にあるもの、水にあるもの、何も表してはいけない。基本的に目に見えるものを再現してはいけないとされているのです。だからユダヤ教に忠実であろうとすれば、再現的絵画や彫刻は、本来存在しえないんですよ。そしてユダヤ教のイコンを認めない伝統を遵守しているのは、実はイスラム教なのです。さらにキリスト教のプロテスタンティズムの中にも、同様の志向性があり、宗教的図像を否定しています。
「美術手帖」2008年4月号・現代アート事典 谷川渥「モダンアートから現代アートへの入門講座」p18(美術出版社)より

 ユダヤ、イスラム、ジャパン?

 しかし、表現しない表現は、宗教とは無縁だ。

029
 赤い帯、赤いマーカーで描かれた赤い帯の連なり。それは何かを表すわけではない。ただ描かれた赤い帯。それは、見たままのものしか表していない。何も表現していない表現。
 赤いマーカーで描かれた赤い帯の氾濫。

 規則的に並列。

 無秩序に即興。

 赤いマーカーで描かれた赤い帯による作品。

030
 模様。それもまた、表現しない表現の絵画とは言えないだろうか。ただ描きつなげられる赤い帯の線。どこまでも、いつまでも、。何かを表すわけではない、ただ描かれた模様、赤い帯。それが、理想の絵画作品だ。

031
 単なる木製パネルの表面にアートを見ること。そこに作品を発見すること。何も描かれていない裸の表面に作品を見出すこと。

032
 段差、裂け目、亀裂、無。

033
 「線を引く」ことや「色を塗る」ということは、かなり異常な行為である。そんなことはない、子どもは誰でも絵を描くではないか、といわれよう。けれども、当の子どもが描いた絵を見たときのほうが、むしろそれが異常な行為であることが、隠しだてなくあきらかになるのではないか。現象世界には到底見当たらない、総体として歪み切った、それでいて意味なく平板きわまりない世界。いわば、「絵を描く」ということそのものが、ぶっきらぼうに、むき出しのまま晒されている。技術をまったく持たない「子どもの絵」が痛快なのは、そのためだろう。それが、子どもの純粋な心の表れなどではないことは、いうまでもない。まったく反対に、子どもの絵には、絵を描くという行為そのもののなかに潜在する、世界との決定的なズレを明確にしてしまう力が備わっており、だからこそ見るにあたいするのである。
 「うまい絵」は、描くということに潜在する、こうした解消不可能なズレを、しょせん後天的でしかない技術によって巧妙に覆い隠してしまう。絵が人を騙すことができるのは、このためだ。
椹木野衣『なんにもないところから芸術がはじまる』P59〜60(新潮社)より

034
 自分に課したルールは以下の四点。(1)思いついたらすぐ描く (2)資料は見ない (3)下書きしない (4)なるべく早く仕上げる
(「本人自ら、最新個展「My県展」の御説明をいたします」、『美術手帖』、二〇〇四年一月号、七四頁)
(中略)ノーウェイヴにたとえれば、「拾って来たギターをチューニングも合わせないままアンプに突っ込み、あとは弾く」とでもいいかえられようか。ギブソンだフェンダーだ、膠だ顔料だ、などとほざいている暇があれば、いますぐ弾き、いますぐ描け、と言ってもよい。要は、今ある自分の生活を、高尚な画題やありもしない夢想、ましてや高価な画材などで誤摩化さない、ということだ。
椹木野衣『なんにもないところから芸術がはじまる』P66(新潮社)より

035
 描きバカ。描くこと、描くこと、それがすべて。描きバカ。

036
 芸術はなんにもないところに向かう

 ただ、描くこと、そこから始めること

037
 大竹に特有の「作るものなどない、でも作り続けなければならない」という矛盾した命題(略)
椹木野衣『なんにもないところから芸術がはじまる』P246(新潮社)より

038
 市販の色円シール(カラー・ラベル・シール)を携帯して、電柱や地面に少しずつ貼って、携帯で撮影し、携帯写真として公開すること、それも作品展開だ。

039
 赤い糸の氾濫。
 床に、壁に。
 規則的に、無秩序に、赤い糸の諸相を展開すること、
それもまた芸術だろう。
 なぜなら、
芸術と赤い糸で結ばれるからだ。

 赤い糸の氾濫。

040
 赤い石を(もちろん普通の単なる石でも良い)
 赤い糸で結び、作品化すること。
 壁に幾つも幾つもぶら下げること。

041
 人の身体の一部に赤い糸を結び、撮影すること。



042
 必要なのは、
 疲れていようと、
 眠くても、
 酔っ払っていても、

 とにかく、描くこと、だ。

043
 短文や長文の日本語の描き文字も作品に加え、作品の要素にしてしまうこと。ただし、表現しない表現の範囲内で。

044
 増殖。しかし、どこにも私は存在しない。しかし、常に増殖し続ける、表現しない表現。しかし、それが理想だ。

045
 描くことが発見なのだ。

046
 色円シール(ラベルシール)による作品をもっと展開すること。気軽に手軽に制作すること。

047
 常にすべては矛盾しているのだ。

048
 なんでこんな絵を描いたのか?
そう思える絵こそ理想だ。

049
 形と色による絵画、それがすべてだ。

050
 音響。それを絵画に導くと、形と色による絵画になる。形・色。