ただ単なる形態と色彩の組み合わせがあり、ただ文章があり、ただ音がある。それが表現の理想であり、それがすべて。
表現しない表現としての 絵画、小説、評論、他。限りなく無に近い絵画。
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牽強付会
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牽強付会 どこでもない場所で
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〔 すべての事象は、どうして必ず意味してしまうのか、意味せざるを得ないのか〕

 すべての事象は、どうして、必ず意味してしまうのか、意味せざるを得ないのか。例えば、人は、どのような事象に遭遇しても、必ず、その意味を読み取ろうと悪戦苦闘する。誰もが、それが何を意味しているのかを探り当てようとせざるを得ないようなのだ。つまり、人という生物の前にあって、すべての事象は、意味付けされてしまわない訳には行かない。たとえ、路上に転がる単なる小石だろうと、その意味を考え出し、無理矢理にでも意味を与えようとする、それが人間なのである。しかも、意味付けが、どうしても上手く行かない場合でも、どうにかして意味付けようとするだろうし、そうでなければ、ただ自分には、その意味を理解できないと断念するか、無意味というレッテルを貼り付けて安心する、それが人間という生物なのである(要するに、どのような意味付けであれ、そこでは意味化されてしまわざるを得ない)。確かに、動物などの生物でも周囲の事象についての意味を判断しようとするだろうが、彼らの対象となるのは あくまでも彼らにとって必要な事象のみに関してに過ぎない。天候であるとか、食べ物であるとか、天敵であるとか、彼らの本能にプログラムされているであろう事象の意味にしか関心がないと言っても過言ではない(要するに、生のゲシュタルトが全うされているのである)。人間だけが、あらゆる事象の意味を考え、意味付けをし、意味の秩序を構築し、意味の階層を積み続けるのだ(まるで賽の河原の死んだ子供やギリシア神話のシジフォスのように)。だから、すべての事象は、どうして、必ず意味してしまうのか、意味せざるを得ないのか、という問いの答えは、そこに人間が関与しているからであると言うしかないことになる。すべての事象は、それぞれのルール(や意志?)に従って、全なる調和として、ただ単に、そこに存在しているだけなのであり、人間だけが、あらゆる意味を類推し、意味付け、階層化し、秩序化すると言わねばならない。例えば、牽強付会などという言葉は、人間だけに当てはまる概念なのであると言わなければならないだろう。では、意味とは何か。それは、人間が関与するからこそ生まれる記号の体系であり、事象の内容である。では、意味とは何によって成立するのだろうか。すべての事象が意味してしまい、意味付けられてしまうのは、人間が関与するからに他ならないが、それらの意味を成立させ、支えているのは、コードに他ならない。つまり、すべての事象が存在し、意味してしまい、意味付けられてしまうのは、コードが、すべての事象の存在を意味を成立させ、支えているからに他ならない。では、コードとは何か。それは、すべての事象を規制し、その存在を可能とさせている何物かであり(コードとは、簡単に記せば、文字を書く「ろう板」、あるいは「綴じた本」に由来する用語で、法律や法則、規則や規制、例えば文法として、もしくは共同幻想として、あらゆる事象を規定し、拘束する記号体系の総称である)、すべての事象は、中心も周縁もなく錯綜し合い、複雑に絡み合うコードの相互作用に規制されているのだ(それは、まさに、コードの織物と言って良い)。記号を例に取れば、一つの記号とは、複雑に絡み合ったコードの連鎖・交錯上の一つの結節点であって、そこでは、コードとコード、記号と記号が、主導権をめぐって常に攻め立て合う空虚な闘争の場なのである(例えば、意味という記号は、パラディグムとして「イミ」と「シミ」、「キミ」「ビミ」「ウミ」「イギ」などの他の記号群と常に優越をめぐって闘争を繰り返しているのだ)。すべての事象は、まるでそれらが自由で、とらわれのない思考や行為の配置であるかのような錯覚を煽り立てているけれども、本当は、すべての事象を規制し、存在を可能とさせているコードによって、束縛も拘束もされている不自由な何物かに他ならない。だから、あらゆる事象が常に意味してしまい、意味付けられてしまうのは、まさに、コードにより規制され、拘束されているからなのである。更に厳密に言えば、すべての事象が存在するのは、コードが基盤となっているからであり、すべての事象が常に意味してしまい、意味付けられてしまうのは、人間が、コードにより支えられた体系としての言語(言語学で言うラングに該当するだろう)を基盤とし、その枠組みの内で思考し行為し意味付ける生物だからである。そうだとすれば、人間が常に意味を求め、意味付けせざるを得ないのは、まるで同語反復の文章のようだが、人間が、コードにより支えられた体系としての言語を基盤とし、その枠組みの内で思考し行為し意味付ける生物だからなのである。つまり、言語という意味の体系の枠の中に人間が存在しているからこそ、すべての事象は意味してしまい、意味付けられてしまうのである。極論すれば、すべての事象が意味してしまうのは、言語という体系が存在するためなのだ。まさに、始めに言葉ありき、なのである。では、意味もなく、意味付けもされない事象は、果たして存在するだろうか。例えば、何の意味も持たない事象や図像は存在するだろうか。意味が消失しても存在し得る、シニフィエ抜きのシニフィアンのみの図像の存在を探究してみることは可能だろうか。意味を持つことなく存在する純粋な(?)図像を求めること? その存在様態を探究してみること? 意味の外部を求めて?


〔 赤い円、日の丸、そして…〕

 ある日、赤い円を描こうと思った。意味を消失した記号だとか、シニフィエ抜きのシニフィアンとしての純粋な(?)記号だとかを求めてなどと言うのではなく、ましてや太陽をシンボライズしようだとか、調和を表現しようなどと言う小賢しい意図なども全くなく、ただ単に気晴らしに、ただ何となく、単なる赤い円を描いてみようと思い付いたのだ。
 明るい午後の明るい部屋で、机の上をとりあえず整理して。BGMは、シルヴィアン&フリップの『ザ・ファースト・デイ』が良いだろうか(デヴィッド・シルヴィアンの最高傑作は、私には何と言っても、デヴィッド・シルヴィアンを含む元ジャパンのメンバー四人で結成したレイン・トゥリー・クロウの『レイン・トゥリー・クロウ』の1枚に尽きる。そこには、充実した詩がある、濃密な詩的世界が。だが、ここでは、『ザ・ファースト・デイ』をセレクトしよう。元ジャパンのデヴィッド・シルヴィアンとキング・クリムゾンのリーダーとして活躍を続けるロバート・フリップの構築した、これもまた素晴らしい詩的世界であり、まさに、詩的・音・空間なのである)。やがて気怠さも晴れるだろう。そして、いよいよ、単なる赤い円を描く。ここでは、私の愛用している画材を中心にして、そのプロセスを記してみる。そうすると、どうなるか。
 最初に純白の用紙を準備する。B4かB3サイズのKMKケントペーパー(少し厚めの物が良い)か、KMKケントペーパーをマウントしたイラストレーションボードを、横位置で使用する。用紙の中心を割り出し、コンパスを用いて任意のサイズ(大き過ぎず小さ過ぎず、程良いバランスに留意すること)の正円を薄く下描きする。次に、専用の筆(とりあえずは平筆でも丸筆でも面相筆でも構わない)、ペーパーパレットもしくは専用の陶器皿(溶き皿)、水入れ、絵具(アクリル系絵具か不透明水彩がベストだろう)の赤(スカーレット・レッドが今は望ましい)を用意する。ペーパーパレットか陶器皿に絵具と水を置き、筆で良く混ぜ(ペインティングナイフやガラス棒で混ぜると一番良い)、薄い下描きの線を上手になぞりながら、赤い絵具を筆で慎重に塗って行く。焦らず丁寧に赤い正円を現出させること。あとは絵具が乾くのを、ゆっくり待てば良いだけである。ゆっくり、ゆっくり、と。デヴィッド・シルヴィアンと坂本龍一による名曲「体内回帰II」(この曲は、とにかく「素晴らしい」の一語に尽きる。デヴィッドのボーカルと坂本の作・編曲センスが抜群のカップリングなのだ。二人の今までのコラボレイションの中でも最高傑作と言って良い)でも聴いて、気持ちを落ち着けながら。明るさの少し陰って来た午後の部屋で。

 単なる赤い円。
 汚れ1つない純白の用紙の中央に描かれた単なる赤い円。
 それは、ただの真紅の正円の筈だった。そう、単なる赤い円の筈だったのだ。しかし、それは、どう見ても日の丸にしか見えない。そう、あの日章旗(言うまでもないことだが、太陽をシンボライズした、あの国旗)以外の何物にも見えない。では、単なる赤い円は、一体どこに姿を消してしまったと言うのか。単なる赤い円を描いた筈なのに、それは、日の丸にしか見えないのだ。一体これは喜劇だろうか、悲劇だろうか。どう矯めつ眇めつ眺め尽くしても、赤い円の絵は、日の丸という重苦しい意味を持った国旗にしか見えないのである。日章旗を描きたいとは全く意図しなかったのに、それは、あくまでも日章旗をしか意味しそうもないのだ。それは、あまりにも不条理な出来事ではないか(それは、赤いハートの絵を描いたつもりなのに、あの銀行のロゴマークにしか見えないという事実よりも更に悲惨だと思うのだが、どうだろうか。なぜなら、ハートのほうが愛情や優しさをコノテーションするから、まだしも救われる筈だからである。少なくとも、ハートを幾つか重ね描きして、マルセル・デュシャンの『ときめくハート』を気取ってみることも可能なのである。少しマニアックな楽しみ方だけれど。いや、それだけではなく、ただただ開き直ってしまい、ポップアートのイメージを引用・剽窃して、大画面にハートを幾つも大きく並べて描いて、豊富で多彩な色彩で塗りたくり、人の目を楽しませるという別の手立てだって可能なのだ。その際は、気晴らしに試みた、ちょっとしたアプロプリエーションだとでも嘘ぶいておけば良い。いや、それを大上段に構えて、徹底的に盗用しまくるという姑息な方法だって試みることは可能だ)。しかし、単なる赤い円は、日の丸にしか見えない。まさに、日の丸。上下を逆にしても同じだ。B判矩形用紙を横位置から縦位置に変えて見ても、事態は、さほど変わりはしない。どこから見ても、それは、日の丸にしか見えない。日の丸。日章旗。日の丸。一体それは、どういうことなのか?
 どう矯めつ眇めつ眺め尽くしても、何度も何度も執拗に見つめ直し見つめ返しても、単なる赤い円の絵は、どこにも存在しない。そこには、日の丸の絵があるだけだ。単なる赤い円の絵は、では、どこにも存在し得ないのだろうか。そんな筈はないと思いたいが、日の丸という国旗が存在する限り、単なる赤い円の絵は消去されざるを得ないと言わざるを得ないようなのだ。たとえ、描いた本人が、どれだけ「これは赤い円を描いた赤い円の絵である」と断言しても、それは、他人には日の丸の絵としか見えないだろう。赤い円の絵は、だから、日の丸が存在する限り存在し得ないのだ。そうではないだろうか(なぜなら、もし日の丸が存在しなかったなら、その赤い円の絵は、どこから見ても単なる赤い円の絵に他ならなかっただろうからである)。それとも、それを、あくまでも単なる赤い円を描いた赤い円の絵であると言い張ることは可能だろうか。赤い円の絵以外の何物でもないと断言できるだろうか。誰にも日の丸の絵と思われることなく? 単なる赤い円の絵であると? 固定した意味を持たない純粋な(?)図像であると? シニフィエを持たないシニフィアン、まさに、形態と色彩だけが存在する限りなくゼロに近い記号であると? しかし、実際に存在しているのは、日の丸であって、単なる赤い円の絵なのではない。それが現実ではないか? そこにあるのは、純粋な(?)図像ではない(そんな物があると仮定してなのだが)。まさに、それが現状ではないか?

 単なる赤い円の絵として描かれた図像は、あくまでも日の丸という重い意味に湿った国旗をしか意味しないのである。では、これに類似した事例は他にもあるのだろうか。例えば、カシミール・マレービッチが『白地の上の黒い正方形』(1915年、それは、まさに、単なる黒い正方形だ)や『シュプレマティスム絵画・白に白』(1917〜18年、白地の上に傾けて描かれた四角形)を描いた時、それらの幾何図形が図らずも旗を意味してしまうなどということはなかったのではないか。そこでは、描かれた形態が描かれた形態として、あるがままに現出していた筈である。例えば、ヨゼフ・アルバースの『正方形頌』(1957〜60年、サイズの異なる正方形の色違いの重ね描き、それとも帯の反復か)、アド・ラインハートの『黒に黒』(1953年、まさに、黒地に黒い正方形!)や『抽象絵画』(1960〜66年、九等分された黒い正方形)、フランク・ステラの『トムリンソン・コート・パーク』(1959年、黒い帯による反復構成、もしくは白のストライプ? だが何が『トムリンソン・コート・パーク』なのか?)や『理性と卑しさの結婚』(1959年、黒い帯による反復構成、これも何が『理性と卑しさの結婚』であるのか?)、バーネット・ニューマンの『崇高にして英雄的な男』(1950〜51年、赤地に五本の縦位置の帯)、『エイブラハム』(1949年、1本の縦位置の黒い帯)、『夜の女王 』(1951年、黒地に縦位置の白い帯、だが、一体、何が『夜の女王』であり、『エイブラハム』なのか? 図像の意味を暗示する象徴的な記号と解釈すべきなのだろうか?)、ピエト・モンドリアンの『明色のチェッカーボード』(1919年、明色約六色による碁盤縞模様)や『暗色のチェッカーボード』(1919年、暗色約三色による碁盤縞模様)から『ニューヨーク・シティ 』(1942年、彩色された格子の構成)や『コンポジション、ロンドン』(1940、42年、格子と色面による構成)に至るまで、それらの作品(もしくは、それらの幾何形態または幾何形態の構成)は、図らずも旗だの他の意味作用を帯びた事象だのを意味してしまうことはなかったのである。それらは、描かれた形態が描かれた形態として、あるがままに現出していたのであり、作家の意図はどうであろうと(例えば、神秘主義的な意味付けだとか、調和や秩序への志向だとかのことである)、限りなく意味を消失した純粋な(?)図像に限りなく近い記号として存在しているのである。まさに、単なる赤い円の筈だった絵とは相違して…。例えば、カール・アンドレの『銅とアルミニウムの平地』(1969年、床に敷かれた市松模様状の作品)、ドナルド・ジャッドの『無題』(1966年、壁に設置された七個の直方体、無題という題、無意味という意味、それもまた意味付けされた逆説的な意味に他ならない訳なのだが、そう言ってしまえば題無しだろうか)や『無題』(1973年、単なる箱状の作品)、ジョン・マックラケンの『無題』(1967年、緑色に塗られて壁に立てかけた板状の作品)、リチャード・セラの『サーキット』(1972年、立てて置かれた四枚のスティール板による構成)、ロバート・ライマンの『アシスタント』(1990年、白い絵具のタッチの集積)、サム・フランシスの『ホワイト・ペインティング』(1950年、白い絵具のラフなタッチの集積、しかし、ライマンの作品のほうが穏やかで上品な印象がある)、アグネス・マーティンの『夜の海』(1963年、まるで青く塗られたタイル貼りの壁のような作品、蛇足になるが、だが、なぜ、『夜の海』なのか? 何かのメタファーなのだろうか?)、そして、山田正亮『Work C-34』(1960年、ランダムな多色ストライプ、これも蛇足だが、この日本の作家は徹底的に初期のストライプ作品が素晴らしい。最近のカラフルな作品は感心できない、と言うより見るに値しない)やダニエル・ビュレンヌのストライプによる全作品、それらは、一貫して、他の何物かに限りなく類似しながらも、しかし、あくまでも作品として現前している。作品として、そこに、ある。やはり、単なる赤い円の筈だった絵とは相違して…。執拗に列挙した作品のどれもが作品として現前しており、単なる赤い円の絵のように図らずも旗だの他の意味作用を帯びた事象だのを意味してしまうことはなかったのである(そこでは、描かれた形態が描かれた形態として、あるがままに現出していたのであり、限りなく意味を消失した純粋な図像に限りなく近い記号として、まさに、形態と色彩だけの限りなくゼロに近い記号として存在していたのである)。

 では、ジャスパー・ジョーンズは、どうだろうか。彼は、意図的にアメリカの星条旗を描いた(二次元の平面に二次元の事物を)。私の場合とは逆に、彼は、国旗そのものを描いたのである。例えば、ジャスパー・ジョーンズの『旗』(1954〜55年、まさに、アメリカ国旗!)や『白い旗』(1955年、白いアメリカ国旗!)。彼は、その絵が旗なのか絵なのかと問いかけたのだ。まさに、意図した旗の絵(彼の作品を参照すれば、当然、意図して日の丸の絵を描くという方法が思い付くが、この方法に関しては、ここでは触れない、と言うより、最後の切り札として、単なる赤い円の絵ではなく、あくまでも日の丸を意図して描くという方法は残しておこうと思う)。ジャスパー・ジョーンズには、他にも標的を描いた(と言うよりは造った?)『標的』(1974年、描かれた標的)を始めとして『緑色の標的』(1955年、緑色で描かれた標的)、『地図』(1961年、塗りたくられたアメリカ地図)、『0から9の重層』(1960年、数字を多色で重ね描き)、『灰色の数字』(1958年、灰色の数字、数字、数字……)、『塗られたブロンズ』(1964年、これは立体作品で、2本のビール缶の彫刻)という同種の意図的な作品が存在している。絵画と言うよりは、まるで他の何物かであると言わんばかりの作品群である。果たして、それは、旗なのか絵なのか。絵なのか旗なのか。単なる旗の絵なのか。それとも、もっと別の何物かなのか。それとも、……。
 例えば、クレス・オルデンバーグの『盛りだくさんの二つのチーズバーガー(ダブル・ハンバーガー)』(1962年、ブヨブヨしたハンバーガー)、マルセル・デュシャンの『泉』(1917年、R.マットという署名を付した便器)、そして、アンディ・ウォーホルの『さまざまな箱』(1964年、約四十個の商品パッケージ)、ピカソやポロックの模作を作品化したマイク・ビドロの一連の盗用作品群、有名な写真家の作品を再撮影して作品として提示するシェリー・レヴィーンの盗用作品群、高松次郎の『日本語の単語』(1970年、「この7つの文字」という7文字の作品)、アンジェ・レッチアの『アレンジメント』シリーズ(ボルボの新車二台をヘッドライトを点灯したままで向き合わせた作品や4台のBMWを正面から向かい合うことなく矩形状に配置した作品などの連作)、そして、最後にルネ・マグリットの『イメージの裏切り(これはパイプではない)』(1928年、パイプの絵に添えられた「これはパイプではない」という文字、これはパイプではなく、パイプの絵に他ならないという訳だろうか)、これらの作品もまた、意識して他の何物かを意図していると言って良い(いや、ある作品などは、まぎれもなく他の何物かに他ならない!)。果たして、それらは、絵なのか別の何物かなのか。疑問が疑問を招き寄せ、連鎖し合うだろう(まさに、イメージの裏切り?)。しかし、私が求めているのは、単なる赤い円の絵だけなのである。それは、日の丸など意図していなかったのに、日の丸にしか見えないのだ。前述したように、日の丸が存在する限り、赤い円の絵は存在し得ない(もし日の丸が存在しなかったなら、その赤い円の絵は、どこから見ても単なる赤い円の絵に他ならなかった筈だ)。しかも日の丸はなくならないだろう(日の丸という国旗のデザインを新たに考案し、もっと別のデザインの国旗に変更して日本の国旗とするなどという気配は微塵もない。それなら、日の丸をすべて燃やしてしまえば良いのだろうか。「すべての日の丸を燃やし尽くすこと?」、しかし、それもまた不可能で愚かな試みに他ならない)。そうだとすれば、やはり、単なる赤い円の絵は、どこにも存在し得ないのである。永遠に、単なる赤い円の絵は、日の丸にしか見えないと断言するしかないのか。

 では、日の丸とは何か。
 日の丸。それは、日本国民なら誰もが承知している国旗である(承知するとは認めることを必ずしも意味しないが、正確には日本だけではなく、とりあえずは世界中の多くの国にも知れわたっているだろう)。それは、太陽を赤い円で象徴した、非常に単純で明解なデザインの国旗だ。場合によっては太陽崇拝信仰をも意味するだろし、その起源は判然としていないが、平安時代前後まで遡れるらしい。始めは、武将の戦旗として用いられたという説もあり、また、青い円だったり、白地ではなく金地だったりもしたらしいが、とりあえず国旗として確定したのは明治時代である(それも国旗としてではなく、船旗としてではあるが)。白地に赤の日章旗。ただし、旗のサイズや縦横の比率、円のサイズ、色彩の規定などは曖昧で、特に法律化されている訳ではなく、あくまでも条令に基づく慣例に過ぎない。しかし、そうだとしても、それは国旗として立派に機能しており、単なる赤い円の筈の物が、日本を表し、太陽を象徴し、またある時は天皇を頂点とする日本的軍国主義を意味し、今では経済大国を物語ってもいるという訳である。
 日の丸。それは、あまりに重い意味の連なりに垂れ下がり、今にも千切れそうになって風に吹かれている国旗に他ならない。日本、太陽、崇拝すべき神としての太陽、天皇を頂点とする日本的軍国主義、国家神道、天皇、侵略(もしくは侵出?)、右翼、日本的経済優先主義もしくは経済大国、そして、ブラックホールならぬレッドホール(そんな物があるとすればの話であるが)、それとも血の赤い染み、もしくは梅干(日の丸弁当と言うではないか)、……。それは、多様な意味を孕んで重い。あまりにも重い。あまりにも重過ぎる。まさに、それが日の丸の正体である。
 だから、日の丸が存在する限り、単なる赤い円の絵は、存在し得ないのである。単なる赤い円の絵だった筈が、日の丸として多様な意味を担い、さまざまな象徴として存在させられてしまっている(では、重い意味の重層にしなだれかかっている日の丸から、あらゆる意味の重層を剥ぎ取り、単なる赤い円に戻すことは出来ないだろうか。しかし、それが簡単にできれば、誰も苦労はしないだろう。まさに、それが簡単にできないからこそ、ここでの紆余曲折が生じてしまったのである)。日の丸が意味するのは、良くも悪くも日本という国家そのものなのである。だから、単なる赤い円の絵はどこにも存在せず、それは、あくまでも日本という国家を象徴する国旗をしか意味し得ないことを、ここでは注意して欲しいのだ。
 だが、なぜ、赤い円でなければならないのか? 確かに、明るい午後の明るい部屋での気晴らしとして思い付いた単なるアイデアに過ぎないとしても、なぜ、赤い円なのか? 赤い円だけに拘泥し続けるのか? 青い円、白い円、黒い円、黄色い円では駄目なのだろうか? 赤い四角、青い四角、白い四角、黒い四角ではいけないのか? だが、なぜ、赤い円でなければならないのか? 今となっては、あの、ある日の明るい午後の明るい部屋での軽い気晴らしとして閃いた、まさに、一瞬の啓示として浮かびあがった、あの赤い円、そう、あの時、私が1つのヴィジョンとして目にしたのは、ただ単なる赤い円が1つ描かれただけの絵だったのである。だから、それは、可能なら赤い円でなければならない。赤い円を現出させるための有効な手立てを考案しなければならないのだ。赤い円を、ただ、ただ、単なる1つの赤い円を! しかし、単なる赤い円は、どう矯めつ眇めつ眺め尽くしても、何度も何度も執拗に見つめ直し見つめ返しても、どう頭の中にイメージを思いめぐらせても、日の丸にしか見えはしないのだ。だから、単なる赤い円の絵を望む者は、ここで絶望するしかないようなのだ。だが、それは、あまりにも早過ぎる断念ではないだろうか。1つの赤い円に拘泥するのをやめて、考え方か発想を少し変えれば、「いや、そんなことはない」と手を打つことも可能な筈である。つまり、単なる赤い円の絵を、単なる赤い円の集合(もしくは、集積)の絵と捉え直せば良いのである。単なる赤い円の数を増やせば、ここでの問題が少しは解決へ向かって動き出すのではないか。赤い円が多数描かれた絵を見て、誰も日の丸を連想したりはしないだろう。多数の赤い円の絵を描くこと、これである。

 では、新しい用紙を意気揚々と用意して、定規とコンパスなどの用具を使用して、赤い円の集合を描こうではないか。まずは円の直径を決め、円と円の間隔を一定にして、正確に円を1つずつ下描きして行く。下描きが終了したら、いよいよ彩色である。幾つも幾つも描かれた円の下描きの線を、赤い絵具と筆で慎重に塗って行く。慣れれば単調な作業だろう。しかし、可能な限り精密に多数の赤い円を現出させること。
 多数の赤い円が幾つも幾つも並列した絵。純白の用紙に一定の間隔で正確にちりばめられた多数の赤い円の集積。しかし、それは、まさに、赤い水玉模様にしか見えない。単なる赤い円の連なりを描いただけの筈なのに、それは、赤い水玉模様にしか見えないのである。一体、この事実をどう解釈すれば良いのだろうか。
 赤い水玉模様。
 赤い円の絵は、どこにも存在しないのか。赤い円の絵を描けば、日の丸にしか見えず、赤い円の連なりを描けば、水玉模様にしか見えない。どちらの方法も最悪の事態しか招かない。それは、一体、どういう事態であると言うのか。

 私は、日の丸を描くつもりも、水玉模様を描くつもりも、どちらもなかったのである。ただ、単なる赤い円の絵を描きたかっただけなのである。しかし、もはや、それも不可能な試みに他ならないのだろうか。幾つかの試みは、既に失敗に終わり、1人、絶望し、沈黙するしかないのだろうか。「いや、そんなことはない」と、再び、しかし、今度は控え目に口にしてみる。手を打つことは、今回は少し遠慮して。つまり開き直れば良いのである。壁一面に匹敵する程の大きさの用紙(紙でなく、板やキャンバスでも構わない)を用意し、その純白の用紙(紙以外の場合は、白の地塗り剤で下塗りする必要がある)の中心に、その用紙のサイズに見合った大きさの赤い円を描く(日の丸を参考にして円のサイズを割り出しても良いだろう)。可能な限り奇麗に赤い円を描くこと。完成した大画面の絵に『赤い円』という絵画と等価のタイトルを付す(しかし、どうして、凡庸な画家ほど、安易で思わせぶりの大袈裟な見せかけに過ぎないタイトルを付したがるのだろうか。タイトルは、作品と等価であるべきである。そうでなければ、作品が意味する象徴を暗示するのに留めるべきではないか)。この馬鹿馬鹿しい程に巨大な作品を赤い円の絵の出発点と考える。まずは、これを私のトレードマークとして発表する訳である。「これは、日の丸を描いた絵ですね」とか、「日章旗ではないのですか」とか聞かれたら、あくまでも「これは、単なる赤い円の絵です」と答えなければならない。誘導尋問に乗ってはならない。それは、あくまでも赤い円の絵を描いただけの『赤い円』なのである。この巨大な赤い円の絵『赤い円』が、まずは今後の展開の出発点なのだ。そして、多数の赤い円の絵を展開し、提示し、発表しよう。任意のサイズで良いから、円のサイズ、円と円の間隔を、まずは決定する(ただし、これらは、円が増えると、その都度、変更しなければならないので、とりあえずの規定とし、可変項として考えておくこと)。用紙のサイズと種類は出来れば統一したい(例えば、B判矩形サイズならB1を横位置で用い、KMKケントペーパーのイラストレーションボードを使用する)。最初の巨大な『赤い円』を参照して、赤い円を1つ描いた絵(まさに、日の丸)を描き、『1個の赤い円』とタイトルする。赤い円を2つ描いた絵(赤い円を左右に並列した作品と上下に並列した作品)を2種類制作し、それぞれ『2個の赤い円a』、『2個の赤い円b』とタイトルする。次に、赤い円を三つ描いた絵(やはり赤い円を左右に並列した作品と上下に並列した作品)を2種類制作し、それぞれ『3個の赤い円a』、『3個の赤い円b』とタイトルする。更に、赤い円を4つ描いた絵(今度は、赤い円を左右に並列した作品と上下に並列した作品に加えて、左右に赤い円を2つ並列したグループを上下に並列した作品)を3種類制作し、それぞれ『4個の赤い円a』、『4個の赤い円b』、『4個の赤い円c』とタイトルする。赤い円を5つ描いた絵は、左右に赤い円を並列した1種類の作品、赤い円を6つ描いた絵は、左右に赤い円を3つ並列したグループを上下二段に並列した作品と左右に赤い円を2つ並列したグループを上下3段に並列した作品の2種類(タイトルは、それぞれ『6個の赤い円a』、『6個の赤い円b』とする)、赤い円を7つ描いた絵は、左右に赤い円を並列した1種類の作品、この調子で赤い円の数を増やしながらバランスを考慮した上で、多数の『n個の赤い円』という赤い円の集合としての作品を展開する。用紙が同一ならば、当然、円の増加に伴って、円のサイズ、円と円の間隔は変わる訳である。赤い円の数が増加して行けば行く程、作品は、赤い円の絵から赤い水玉模様の絵に変貌し続ける筈だ。やがて、それは、赤い水玉模様以外の何物でもない状態を迎えるだろう。しかし、それでも、タイトルは『n個の赤い円』であり、あくまでも、それは赤い円の絵を描いた作品なのだと、力強く主張しなければならない。しかし、その絵は、果たして、赤い円の絵なのか、それとも赤い水玉模様の絵なのか。それらの赤い円の絵は、どれだけ赤い円の絵であると主張し続けたとしても、作品の状況によっては(例えば、『1個の赤い円』と『100個の赤い円』を想起して欲しい)、人には、「日の丸の絵である」とか、「赤い水玉模様の絵に過ぎない」とか言われ続ける筈である。やはり、どれだけ多数の赤い円の絵を展開し、提示し、発表したとしても、単なる赤い円の絵は、どこにも存在し得ないのだと言わねばならないのかもしれないし、単なる赤い円の絵は、日の丸と水玉模様との中間で曖昧に揺れ、宙吊りになるしかないのかもしれない。だが、かろうじての折衷案が1つある。前述の赤い円の集合は、円と円の間隔を等間隔にしていたが、円と円の間隔をランダム化して作品展開するのである。例えば、画面の右下に数個の赤い円がランダムな間隔で散らばっていたり、画面の中央に数個の赤い円がランダムな間隔でリズミカルに並んでいたり、また、赤い円のサイズを作品1点の中でも変えて構成するなど、それでも考えてみれば、まだまだ方法はありそうである。しかし、それでも、それらは、今度は、デザインの初級訓練課題のようだとか、色弱検査の模様のようだとか、揶揄され続けるだろう。それでは、赤い円の絵は、やはり、どこにも存在し得ないということなのか。単なる赤い円の絵を望む者は、ここで、更に深く絶望するしかないのだろうか。開き直りも無意味しかもたらさないのか。「いや、そんなことはない」という声は、もう聞こえない。沈黙が、静寂が、誤解が、絶望の度合いを更に深めるだけなのだ。結局、すべては、堂々めぐりなのだろうか。悪循環、もしくは、同語反復? 日の丸は、所詮、日の丸なのだし、水玉模様も、所詮は、水玉模様に他ならない。だから、単なる赤い円の絵は、日の丸と水玉模様との中間で曖昧に揺れ、宙吊りになるしか運命付けられていないのだと結論するしかないのだろうか(もっと言えば、デザインの課題だとか、レイアウトのフォーマット例だとか、色弱検査表だとか揶揄され続けながらである)。しかし、そんなことに今頃になって気付いても遅過ぎるではないか。では、どうすれば単なる赤い円の絵が現出するのか。もう打つ手はないのか。手立ては、どこにも存在しないのか。

「いや、最後の切り札が2つある」と、心細い声が唐突に囁く。ルネ・マグリットとジャスパー・ジョーンズの2つの臨界点がそれである。では、それは、どのような手立てなのだろうか。どんな切り札なのか。
 まずは、ルネ・マグリット、その単純な盗用を試みたい。その時、単なる赤い円の絵は、どのように変貌するかを見てみたいのだ。純白の用紙の中央に赤い円を描き、赤い円の真下に「これは日の丸ではない」という一文を描き込む。タイトルは『イメージの裏切り』では、あまりにもあからさまなので、単に『これは日の丸ではない』にしたい。この作品においては、赤い円の存在は、果たして、どうなるのだろうか。誰が見ても、それは日の丸なのだが、画面とタイトルは「これは日の丸ではない」と明示しているのである。では、果たして、それは、日の丸ではないのならば何を意味していることになるのか。赤い円だろうか、それとも、日の丸の絵だろうか。そこで、疑問と疑問が招き寄せられて連鎖し合うだろうか。それとも、タイトルと画面の齟齬の間で宙吊りになって彷徨うのだろうか。しかし、見る者は、「これが日の丸ではないのだとすれば、多分、日の丸の絵なのではないか」と結論付けるのではないだろうか。そこでも、単なる赤い円は存在し得ないだろう、と言わざるを得ないのではないか。実に残念なのだが…。
 では、ジャスパー・ジョーンズは、どうだろうか。彼の『旗』(1954〜55年、エンコースティックによるアメリカ国旗)に倣って、純白のキャンバスに白いアクリル絵具とメディウムを混ぜてムラ塗りし、その中央に赤いアクリル絵具とメディウムで赤い円をムラ描きする。タイトルは、『国旗』、もしくは『日の丸(日章旗)』とする。それは、旗だろうか、絵だろうか。その描かれたタッチを見る限りでは絵であるが、図像は国旗(日の丸もしくは日章旗)に他ならない。それは、旗なのか絵なのか。絵なのか旗なのか。それとも、もっと別の何物かなのか。それとも、……、しかし、それは、そこでも、単なる赤い円を意味しようとは決してしないと言わざるを得ないようなのだ。だから、やはり、どうあっても赤い円はどこにも存在し得ないということなのだろうか。純然たる赤い円は存在を許されてはいないのだろうか。どのような手立てによろうとも、そこでは、日の丸しか存在し得ないのだ、そう結論付けるしか手立てはないのだろうか。そうであれば、これらの最後の切り札も何とも心許ない手立てであると言わざるを得ないだろう。純然たる赤い円の絵を求める幾つかの手立ては、すべて徒労に過ぎないのか。そうであるのなら、もう、純然たる赤い円の絵を求めるなどという徒労をしかもたらさない手立ては諦めて、ジャスパー・ジョーンズよりも徹底的な方法によって日の丸を現出させ続けたら、果たして、どうなるか。まさに、日の丸の氾濫である。つまり、日の丸をテーマとして展覧会を企画するのである。しばらくは、単なる赤い円の絵の存在様態に関しては留保する。「日の丸を制作し、日の丸を氾濫させろ!」という指示、今は、それが、それだけが、唯一の手立てなのだ。

 四方を純白の平滑な壁で囲まれた画廊空間(まさに白い箱、ホワイト・キューブだ)に、日の丸作品を展開する。木やスティールなどの厚みのある素材を円形に切り、赤い絵具を吹き付けて、壁面の中央に設置し(やはり、壁面のサイズを考慮して円のサイズを決めること)、白い壁そのものを地とした巨大な日の丸を現出させる。違う壁面には、市販の日章旗の可能な限り巨大な物を購入し(納得が行かない場合は、特注するか自ら制作する)、それを立てかけておく(もちろん、その大きさに見合った特大ポールに固定させて)。また、国の祭事などで人々が手に持ち小さく大きく振り続ける、あの日の丸の小旗を百本から二百本まとめて購入し、それぞれをコーナーに一定間隔で立てて固定し、矩形状に形成する。また、次の壁面には、雑誌見開き程度のサイズの用紙に日の丸を描き、これを数十枚用意し、壁一面に隙間なく貼り付ける。水玉模様を構成する日章旗の集積が出来上がる。まさに、日の丸が氾濫する画廊空間である(芳名帳を置く小机には、日の丸弁当を添えておけば、より完璧であるだろう)。しかし、日の丸をモティーフにして制作を続ける時、私には、アメリカ国旗をモティーフにして制作を続ける時とは違う問題が生じるように感じられて仕方がない。なぜなら、日の丸が意味してしまうのは、日本という国家とか太陽とか経済大国とかだけではなく、右翼的な行動や思想でもあるからだ。つまり、前述の展覧会を実施したなら、日の丸の展覧会というデノテーション(第1の意味)に加えて、右翼的な思想を持つ人物による右翼的な展示というコノテーション(言外の意味)をも人は読み取るだろう。しかも、展覧会の企画・制作者には右翼的な行動も思想も存在しないにも関わらず、である。多分、それは、アメリカ国旗を展示するのとは異なる位相の筈である(誤解かもしれないが、アメリカ国旗は、もっとニュートラルなイメージであるように感じられる。だからこそ、ジャスパー・ジョーンズのアメリカ国旗は絵なのか旗なのかと問うことができたのではなかったか)。もしも、そうだとすれば、純然たる日の丸(日章旗)も存在し得ないと断言しても良いのかもしれない。つまり、日の丸は、意図していないにも関わらず、重く多義的な意味で湿ってしまう何物か(スポンジのような?)なのである。だから、赤い円の絵をめぐって、幾つか書き連ねてはみたが、結局、単なる赤い円の絵は存在し得ないのだと、結論せざるを得ない。赤い円の絵は、どこにも存在を許されてはいない。だが、なぜ、日の丸なのか(しかし、私は、赤い円を描く試みを通して日の丸に到達しただけなのだから、当然、その明快な解答を持ってはいないのだが)。周囲を見回してみれば、日の丸(もしくは、日章旗)は、あらゆる場所で氾濫している。果たして、日の丸の氾濫は何を意味し、何をもたらすのだろうか。私には、日の丸の氾濫は、非常に不可思議で不可解な現象に思える。だから、改めて、日の丸とは何か、と、問いかけてもみたくなるのだ。一体、日の丸とは、どんな意味の錯綜なのか、と。

 日の丸が、私には赤い円の絵に見えると試しに言ってみたら、どうだろうか。人は、日の丸を国旗としてしか見ないだろうが、私には、それが赤い円の絵にみえると開き直って言い張ってみたら、どうなるのか。全世界に氾濫している日の丸は、すべて、私の『赤い円』という作品に他ならないのであると豪語してみたら、どうか。「白地に赤い円は、すべて、私の『赤い円』という作品なのである」と規定し、誰が、どんな目的で、日の丸を作成しようとも、それは『赤い円』という私の作品なのであると主張するのである。それは、あまりにも誇大妄想的な主張だろうが、一考する余地のあるアイデアであると言えるかもしれない。なぜなら、コンセプチュアルな声明を発表するだけで、日の丸の旗のすべてを自分の作品と標榜した上で盗用し、すべての日の丸の図像を赤い円の絵として再定義することも可能となるからだ。そして、その声明に準ずる形式で日の丸を作品化する活動も同時に続けて行けば良い(例えば、前述した画廊での日の丸をモチーフとした作品群のさまざまな展開に加え、更にその方法を発展させて、数十メートルの布に赤い円を描くか染めるかした巨大な日の丸を制作し、建物や道路、自然の景観に挿入し異化作用を生じさせるなどの意図的に日の丸を現出させ続ける試みなど、考えられる限り多種多様の展開)。つまり、「全世界に氾濫している日の丸(もしくは日章旗、つまりは白地に赤い円のデザイン)は、1996年10月10日より、作品『赤い円』となることを、ここに発表する」という声明を、あらゆる場所で幾度も幾度も執拗に発表し続けて行くのだ。日の丸の氾濫が赤い円の氾濫に変容する時を願って、絶え間なく、その主張を続けること、つまりは、やがて、いつか、すべての日の丸が私の『赤い円』という単なる赤い円の絵となることを限りなく夢見続けること。ある日、日の丸が消滅し、すべてが『赤い円』に生まれ変わる、そんな瞬間を夢見ること。赤い円は、日の丸という国旗ではなく、厳密には単なる赤い円に他ならないことが明白となる日を常に夢見ること。儚い夢であろうとも常にそれだけを願ってやめないこと。しかし、単なる赤い円を忘却したまま国旗として誰もが認識することを疑わない現状の国旗認識の制度が覆され、赤い円が赤い円として存在し得る日を願うことは、所詮、儚い夢か些細な記号転覆の目論みに過ぎないと言えば言えるだろう。しかし、それでも、日の丸は、そんな儚い夢の存在とは全く無関係に(そんな夢など全く無視したままで)、あらゆる場所に存在し、氾濫している。それは、少し注意して周囲を見渡せば、合点の行く事実だろう。しかも、平日よりも祝祭日や国の祭事においてのほうが、その数は倍増するのである。その時、その数は限りなく増殖するだろう。休日や祝祭日の商店街の軒並みに、スポーツの試合会場の天高くに、皇室関連のイベントや選挙演説を見守る観衆の振り上げた手と手に、国家規模の会議やイベントの場に、右翼の宣伝カーの車体や事務所の内外に、昼食のサラリーマンの弁当の中心に、日の丸は氾濫している。しかし、ここで、改めて問うべきだろうか。日の丸の氾濫が、果たして、何を意味し、何をもたらすのだろうか、と。それは、極論すれば、日本という国家を表しているということに過ぎないだろう。どこにあっても、それは、日本という国家を表している(しかも、多種多様な意味合いを込められながらだろうが)。つまり、私には、日の丸の氾濫という現象は、非常に不可思議で不可解なのである。だからこそ、改めて、日の丸とは何か、と問いかけてもみたくなるのだ。日の丸とは、どんな意味と意味との錯綜の結節点であるのか、と。そして、それは、単なる赤い円の絵を隠蔽し続けるための不可視の認識装置なのではないのかという認識へと導くだろう。まさに、日の丸が、単なる赤い円の絵を隠蔽し続けるための不可視の認識装置(と言っても、日の丸それ自体は目に見えるのだが)であるからこそ、単なる赤い円の絵は、どこにも存在し得ないのだ(しかし、誰が、何の目的のために単なる赤い円の絵を隠蔽しなければならなかったのか?)。
 日の丸とは、単なる赤い円の絵を隠蔽し続けるための不可視の認識装置なのである。


〔 不可視の隠蔽装置から進入禁止の道路標識へ〕

 例えば、日の丸の図像は、進入禁止の道路標識に酷似してはいないだろうか。恐ろしいほど過剰に氾濫している様相をも合わせて、日の丸の図像は、進入禁止の道路標識に、まるで双生児のように酷似していると思う。赤い円の中に置かれた白い帯、それは進入禁止を表す記号である。白い矩形の中に置かれた赤い円、それは国家を表す記号である。その様相は、そして、その文は、あまりにも酷似し過ぎていると言えば言い過ぎだろうか。
 日の丸と進入禁止の道路標識、それらは双生児のように酷似している。しかし、言うまでもなく、相違点は幾つもある。それは確かであるし、否定はしない。例えば、柔らかい物としての日の丸(それは、主として布であり、中空にハタハタとはためき翻る存在だ)と硬い物としての進入禁止の道路標識(それは、金属であり、中空に停止したままの存在だ)。例えば、持ち運べるかどうかの違い(当然、日の丸は巨大なサイズでなければ、簡単に持ち運べるだろうが、道路に固定して設置されている進入禁止の道路標識は基本的に無理である)。例えば、意味の異なり(日の丸は、さまざまな意味を担い、重く湿った象徴的記号だが、進入禁止の道路標識は、1つの意味だけを表すようにデザインされた信号的記号である)。しかし、それらの幾つかの相違点を超えて、この二つの過剰なまでに氾濫した図像は(一方は天に向かい背を伸ばして揺れ続け、他方は地上に固定され静止したままだが)、まるで双生児のように酷似しているのである(だが、それは、単なる赤い円を求め続けている私の単なる錯覚か幻想に過ぎないのだろうか。赤い円の絵を現出させたいがための幻覚に他ならないのだろうか。しかし、実は、私は、日の丸も、進入禁止の道路標識も、単なる赤い円に他ならないのではないか、と言いたいのである。「どこにも存在し得なかった赤い円が、ここに存在している」と豪語したいのだ。あらゆる場所に赤い円が氾濫している、「日の丸」として、「進入禁止の道路標識」として。しかし、私以外には誰も赤い円の氾濫だとは思いはしないだろう。なぜなら、単なる赤い円の絵は、どこにも存在し得ないのだし、日の丸そのものが単なる赤い円の絵を隠蔽し続けるための不可視の認識装置に他ならないからである。だから、日の丸という単なる赤い円の絵を隠蔽し続けるための不可視の認識装置を対象化し、図像それ自体を真摯に視ようと努力すれば、「単なる赤い円」が、「日の丸」として、「進入禁止の道路標識」として、あらゆる場所に存在し、氾濫している事実に驚く筈である。私には、「日の丸」も「進入禁止の道路標識」も、「単なる赤い円」に視えるのだ)。

 日の丸と進入禁止の道路標識、それらは、まるで双生児のように酷似してはいないだろうか(それらは単なる赤い円の絵を隠蔽し続けるための不可視の認識装置であるという点でも酷似していると言わねばならない)。


〔 赤い帯、そして意味の外部へ〕

 夢を見た。
 場所も時間も何もかも明白ではない。ただ、淡々と私が絵を描いているだけの、そんなシンプルな夢だ。私以外の誰も登場しない、些細だが、良く考えれば、まさに、1種の啓示とでも呼べそうな重要な夢。どことも知れない場所で、少し大きめの机で私が黙々と絵を描いている。良く見ると、それは、赤い帯の絵だ。雑誌を開いた程度のサイズの用紙に、絵具で赤い帯を描いていた。その絵は、数点あった。赤い帯1本を横位置で中心に描いた絵。赤い帯2本を横位置で左右に並置して描いた絵。そして、赤い帯7本を横位置で上から下に順に並置して描いた絵。今、描いているのは、赤い帯3本を縦位置で左右に並置した絵だ。ただそれだけのシンプルな夢を見た。夢の中の描かれた3点の絵と描かれつつある1点の絵、その計4点の中の、赤い帯を横位置で中心に1本だけ描いた絵、その1点の絵だけが、ここでは重要なのだ。なぜなら、1本の赤い帯の絵、それは、私には日の丸の図像から進入禁止の道路標識の図像を差し引いた、もう1つの図像に見えるからだ。つまり、「日の丸の図像」マイナス「進入禁止の道路標識の図像」イコール「1本の赤い帯の図像」という等式が、私には成立するということである。だからこそ、赤い帯の夢について一種の啓示的な夢と記したのだ。だから、ここでもう一度、日の丸の図像と進入禁止の道路標識の図像を想起して、「日の丸の図像」から「進入禁止の道路標識の図像」を差し引いてみて欲しい。当然、「日の丸の図像」と「進入禁止の道路標識の図像」の円のサイズは同じと設定して(同時に、「進入禁止の道路標識の図像」の円形の白い枠線は便宜上、無視する。なぜなら、それは不要な単なるガイドラインに過ぎないからだ)。そうすると、そこに歴然と現出するのは、「1本の単なる赤い帯の図像」ではないだろうか。多義的な意味の交錯に重くなることもなく、信号としての指示機能を持つこともなく、まさに、「1本の単なる赤い帯」としての存在。つまり、さまざまな意味を担って重い日の丸や、信号としての一義のみを固執することだけを宿命付けられた進入禁止の道路標識とは異なり、余計な意味の消失した、「1本の単なる赤い帯」という、限りなくゼロに近い意味しか持たない純粋な図像としての存在。まさに、「1本の単なる赤い帯」という意味の「1本の単なる赤い帯」。しかし、それは、果たして純粋な図像なのだろうか。確かに限りなくゼロに近い、そして、限りなく純粋な図像に近い図像ではあるのだが。
 では、純粋な図像とは何か? それは、純粋な幾何形態だろうか。いや、それは、意味が消失しても存在の可能な、まさに、シニフィエ抜きのシニフィアンとしての図像だ(蛇足だが、シニフィエとは記号=シーニュの記号内容もしくは概念としての側面であり、シニフィアンとは記号=シーニュの記号表現もしくは聴覚映像としての側面である。だから、記号=シーニュとは、シニフィエとシニフィアンの二側面の恣意的結合体のことであり、記号学では、シニフィエの存在しない音声は記号=シーニュとは言えず、それは単なる物理音に過ぎないということになる)。果たして、全く意味を持たない純粋な図像など存在し得るのだろうか。どのような図像だろうと、どのような記号であろうと、必ず一つのシニフィエ(無意味もまた、まさしく、シニフィエの一形態に他ならない)を持つシニフィアンなのであって、シニフィエ抜きのシニフィアンなど存在し得ないと言わざるを得ないだろう(記号学では、記号=シーニュそれ自体が、シニフィエとシニフィアンを合わせ持った物と初めから定義付けられているからだ)。だから、限りなくゼロに近い、そして、限りなく純粋な図像に近い図像に思われる「1本の単なる赤い帯」であっても、どうしても「1本の単なる赤い帯」というシニフィエを担わざるを得ないのである。一体、シニフィアンのみの氾濫などあり得るのだろうか。無意味もまた、シニフィエの一形態なのだから、浮遊するシニフィアンなどあり得ないと言わざるを得ないのではないか(ただし、無意味という形態こそがシニフィエの不在を無を表すのだと仮定するのならば話は別である)。だから、純粋な図像など求むべくもないのではないか。しかし、ここには、余計な意味が消失し、「1本の単なる赤い帯」という限りなくゼロに近い意味しか持たない図像、まさに、「1本の単なる赤い帯」という意味と等価の「1本の単なる赤い帯」が存在している。ここでは、この「1本の単なる赤い帯」という意味と等価の「1本の単なる赤い帯」の存在を貴重な形態として尊重することとしたい。なぜなら、これが、現在、手にすることのできる唯一の、限りなく純粋な図像に近い図像だと考えざるを得ないからである(そうであれば、「単なる赤い帯」の氾濫こそが今後の課題となるだろう)。
 1本の単なる赤い帯(それは、こことは別の場において、赤い円や日の丸、進入禁止の道路標識などを超え出て、もっと別の展開を提示することになるだろう。物語や表現を自明の理として持続させ、維持させ続けるための巧妙で狡猾な装置である作品という虚構捏造の場において、物語や表現を成立させ、支えているコードそのものを明示しようという原理的で構造的な試みが、赤い帯の配置により実施され続ける筈だ。そこで明らかになるのは、コードそのものであるのだが、その実際は、こことは別の場で展開されることになる。ちなみに、赤い帯の配置をコンセプトとした作品群は『配置』というタイトルを付され、徐々に増殖して行く筈である)。

 だが、なぜ、すべての図像は、必ず意味してしまうのか、意味せざるを得ないのか。
 図像に限らず、すべての事象が存在し、意味してしまうのは、それらを成立させ、支えているコードによる。つまり、すべての事象を規制し、その存在を可能とさせている何物かがコードに他ならないのであり、すべての事象は、中心も周縁もなく錯綜し合い、複雑に絡み合うコードの相互作用に規制されているのだ(それは、まさに、コードの織物である)。どのような記号でも、1つの記号は、複雑に絡み合ったコードの連鎖・交錯上の1つの結節点であって、そこでは、コードとコード、記号と記号が、主導権をめぐって常に攻め立て合う空虚な闘争の場に他ならない。その点では図像もまた例外ではない。だから、記号や図像に限らず、すべての事象は、まるでそれらが自由で、とらわれのない思考や行為の配置であるかのような錯覚を煽り立てているけれども、本当は、すべての事象を規制し、存在を可能とさせるコードによって、束縛も拘束もされている不自由な何物かに他ならない。だから、あらゆる事象が常に意味してしまい、意味付けられてしまうのは、まさに、コードにより規制され、拘束されているからなのである。更に厳密に言えば、すべての事象が存在するのは、コードが基盤となっているからであり、すべての事象が常に意味してしまい、意味付けられてしまうのは、人間が、コードにより支えられた体系としての言語(言語学で言うラングに該当する)を基盤とし、その枠組みの内で思考し行為し意味付ける生物だからである。そうだとすれば、人間が常に意味を求め、意味付けせざるを得ないのは、まるで同語反復の文章のようだが、人間が、コードにより支えられた体系としての言語を基盤とし、その枠組みの内で思考し行為し意味付ける生物だからなのである。つまり、言語という意味の体系の枠の中に人間が存在しているからこそ、すべての事象は意味してしまい、意味付けられてしまうのである。極論すれば、すべての事象が意味してしまうのは、言語という体系が存在するためなのだ。まさに、「始めに言葉ありき」なのであり、厳密には「徹頭徹尾すべてにおいて言語あり」なのである。言語が存在するからこそ人間が存在し得る。だから、人間は、意味から脱け出ることはできない。なぜなら、意味から脱け出ることは、言語を捨て去ることと同義であり、人が言語を捨て去る時、それは人が人間ではなくなる時を意味するからである。人間は、絶対に意味の外部へは出られないだろう(意味の外部を想起することは可能かもしれないが)。なぜなら、それが人間であるからだ。意味の外へは出られないのなら、意味の内部で何が可能かが今後の課題となるだろう(例えば、人は常に意味の内部にしかいられないことを認識した上で、自明の理として跳梁跋扈している、あらゆる意味の枷を対象化し続けること。意味の内部で、自分自身がどのようなコードにより支えられているのかを見極めようと常に努めること。可能なら、すべてのドクサを白日のもとに暴き出し、並べ、そして、それらを超え、横にずらし、パラドクサの運動を引き起こしてやめないこと。そして、何も意味しない場、物語も表現も存在し得ないような磁場、物語も表現も一瞬で凍り付き、空白化し、無となり、物語も表現も存在し得ないような、どことも知れない場、誰もが沈黙を強制されてしまう強引で強力な磁場を執拗に求め続けること。何も物語らない物語、何も表現しない表現、何も物語れない物語、何も表さない表現、そんな不可能な存在を誘い出そうと試みること。すべての意味のすべて、すべてのコードのすべてを視つめようとする原理的で構造的な視線に基づく磁場。そして、誰もが当然で自明の理として無意識に繰り返す同じ物語、類似した表現の全てを覆し、沈黙へと至らしめること。そのような真摯な目論みの幾つかを常に持ち続け、実施へと具体化する行為を繰り返し続けてやめないこと。「私たちは常に意味の檻の中にいる」ことを常に意識して生きること、意味の檻の中で何が可能で何が不可能かを常に問うことが求められていると言えるだろう)。

 意味の外へは出られない。