ただ単なる形態と色彩の組み合わせがあり、ただ文章があり、ただ音がある。それが表現の理想であり、それがすべて。
表現しない表現としての 絵画、小説、評論、他。限りなく無に近い絵画。
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文章
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牽強付会
攪乱をめぐって
絵画の真実、真実の絵画 どこでもない場所で
どこでもない場所でv2
■絵画の真実、真実の絵画001
 絵画の真実とは何か。そんなものは存在するのだろうか。急にこんな疑問が私の頭から離れなくなった。特に主張やヴィジョンが確固とあるわけではなく。ただ、漠然と、絵画の真実とは何かという曖昧な想念に私は突然に支配されたのだった。
 たとえば、映画とは馬の映像を馬だと詐称することだと言ってのけたゴダールを持ち出すまでもなく、絵画もまた馬の表象を馬だと詐称する虚偽・虚構の芸術にほかならない。それは真実ではなく、虚構なのだ、それが絵画の真実なのではなかったか。
 そのようにして絵画は常に真実だと詐称し続けて来たからこそ、ルネ・マグリットはパイプの絵を描いて「これはパイプではない」とそっと囁いたのだろうし、ヨゼフ・コスースは本物の椅子と椅子の写真・辞書の定義をひとつの壁に並列して見せたのではなかったか。それは、絵画こそ虚偽・虚構の装置なのだと、控えめに彼らは主張したのだと私には思われて仕方ない。
 絵画の真実とは何か、果たして絵画に真実はあるのだろうか。それは質問自体が間違っているだろうか。

■絵画の真実、真実の絵画002
 絵画は常に人を騙して来た、それが真実だ。あるはずのないものをあるものとして描き、見るものを信じ込ませて来たのだから。その罪状が戦争画として日本の最近では語られはしなかったか。いつだってそれが真実だという表情・身振りで絵画は虚偽・虚構を隠蔽して詐称して来たのだ。それは潔い姿なのか。たとえAV女優がどれだけあえぎもだえ、あそこを濡らしまくろうが、これは虚構だと言い兼ねないアダルト・ビデオとは雲泥の差だ。
 常に、絵画は、真実だという表情しか持たない。それが絵画の真実だ。虚偽・虚構が真実なのだ、それが絵画だ。
 虚偽・虚構とは何か、それはないものをあるといい、あるものをないといい、単なる画像を食べられると言い募ることにほかならない。その典型が絵画だというのは言い過ぎだろうか。しかし、ドラマや演劇もまた同様だろう。試しに演劇やドラマで、演じる者たちが役名ではなく、芸名や本名で演じたらどうなるか、多分、役柄という虚構と、自身である芸名・本名が錯乱し合い混乱するのではなかったか。
 常に表現とは、虚偽・虚構の装置なのだ。絵画が悪者というわけではない、絵画がその典型だというだけのことだ。

■絵画の真実、真実の絵画003
 絵画とは、虚構・虚偽の装置の別称である。それは、音楽も同様ではなかったか。
 たとえば、テクノやアンビエントのぐしゃぐしゃの音楽や、ステーヴ・ライヒの『ドラミング』『クラッピング・ミュージック』を聴けばそれが明確になるだろう。そこではメロディーやハーモニーは極力ミニマル化し、リズムよりもビートが優先され、激しく、または静かに紡ぎだされる。そこでは、音楽がいかに構造化された情緒の装置として君臨しているかが明確化されるだろう。たとえばジョン・ケージの「4分33秒」を思い出せばいい。そこには音楽ホールという環境と、音楽という時間があっただけで、いかに音楽が構造化された情緒の装置と化しているかが暴露されていたはずだ。
 単なる音、単なる音楽、それが真実の音楽ではなかったか。だからこそテクノやアンビエント、音響派の作品は、何も表現しないのだ。ただ音だけが、ただ音楽だけがある。
 ただ、音だけが、音の組み合わせだけが、ある。
 それが音楽自身の密かな夢である。

■絵画の真実、真実の絵画004
 絵画もまた、単なる形態と色彩の組み合わせを密かに望んでいるのではないだろうか。
 何も表象しない、単なる絵画。シニフィエを疎外したシニフィアンだけの絵画といえば良いのだろうか。色彩も形態も、具体的な対象を表さず、情緒的な感情や情念を象徴することもない、単なる形態と色彩の組み合わせだけの絵画。悦楽的な、ただ存在するだけの、絵画。それが絵画の真実ではないか。それは、虚偽・虚構の装置であることから自ら脱却することでもある。真実の絵画に。
 ただ、単なる形態と色彩の組み合わせだけが、ある。
 それが絵画自身の密かな夢である。

■絵画の真実、真実の絵画005
 しかし、絵画の真実が、具体的な対象を表さず、情緒的な感情や情念を象徴することもない、ただの単なる形態と色彩の組み合わせだけの絵画であり、悦楽的な、ただ存在するだけの、絵画なのだとすれば(音楽も同様だろう)、小説はどうなのだろうか。そう、小説もまた恐ろしくも虚偽・虚構の装置ではなかったか。だからこそ高橋源一郎は『さようなら、ギャングたち』『あ・だ・る・と』『日本文学盛衰史』と何作にも渡り、虚偽・虚構の装置にしか見えない作品を創り続けて来たのではなかったか。
 小説もまた虚偽・虚構の装置から脱却する手立てとして、書かれた単語も文章も、具体的な対象を表さず、情緒的な感情や情念を象徴することもない、ただ書かれただけの、悦楽的な、ただ存在するだけの、もちろん文脈なども不在の文学を目指さなければならないだろう。それが文学の使命なのだ。絵画に限ったことではない。
 そこには、いや、結論を急ぐのは控えよう(というか、既に結論は出てしまっているが)、これからは、一つずつ論じて行く必要があるだろう。
 真実に向けて。

■絵画の真実、真実の絵画006
 常に音楽も、小説も、絵画も、表現のパターン(それは、いくつもの技法や手法の際限のない組み合わせによるものにほかならない)に基づいた虚偽・虚構の装置にほかならない。そうであるからこそ、ここから何が可能かと問わねばならない。
 否定形が好きだ。たとえば表現しない表現。たとえば描かないことで描くこと。絵画ではない絵画。音楽ではない音楽。小説ではない小説。ないものねだりということだろうが、否定形が好きだ、何よりも。それがゴスの精神だと自分では勝手に解釈しているのだけれど。解釈しない解釈?

■絵画の真実、真実の絵画007
 表現しない表現、それが理想だ。大げさな表現も、緻密な表現も今はもう必要ない。単に何も表現しない表現(きっとそれはゴス的表現ではないが、精神的にはゴスそのものとしての表現であるはずだ)。表現しない表現、それが絵画の・小説の・音楽の真実であり、理想なのだと思う。単なる形態と色彩の組み合わせ、それが美の・美意識の理想であり、最終形態である。
 表現しない表現。
 それは、たとえばオウテカのような表現、オウテカのような絵画。

■絵画の真実、真実の絵画008
 それは、表現しない表現。
 それは表現しないことを理想とする表現。
 それは、虚偽・虚構の装置ではないからこそ真実である表現。
 あるがままの表現しない表現。
 絵画も、音楽も、そして小説もまた。
 沈黙に既に表現が宿っている。だからこそ、最小限の表現で表現は成立するのだ。
 最小限にこそ表現は冴える。

 単なる形態と色彩の組み合わせ。

■絵画の真実、真実の絵画009
 絵画とは、単なる形態と色彩の組み合わせを理想とする表層こそ絵画の理想だ。ただ単なる形態と色彩の組み合わせがある、それが絵画の真実であり、真実の絵画であるだろう。小説・音楽も、また。
 ただ単なる形態と色彩の組み合わせがある。ただ文章がある。ただ音がある。それが表現の理想である。

■絵画の真実、真実の絵画010
 ただ、単なる形態と色彩の組み合わせがある。それだけだ。限りなく無意識に近い無作為・非表現の絵画。物語もイメージもほとんど存在しないような、極限で繰り広げられる即興劇。ロラン・バルトが自分の絵画を浪費と名付けたような、悦楽的な、しかし、何も表現しない零度の絵画。絵画の真実、真実の絵画、それがこれから始められる絵画の定義だ。そこにこそ、絵画の真実、真実の絵画が現前するだろう。今は、そう信じている。
 ただ、単なる形態と色彩の組み合わせがある。それは、ただ単に色付けされた不定形態が幾つか組み合わされるだけの作品であるだろう。アクリルガッシュや折り紙、イラストレーターなどで、色付けされた不定形態が幾つか組み合わされるだけの作品、それが絵画の新たな理想だ。ただ、そこには形態と色彩の組み合わせがあるだけだ。何かが表現されるわけではない。無造作に色付けされた不定形態が幾つか組み合わされるだけだ、それが絵画の理想であり、絵画の真実・真実の絵画である。
 ただ、色付けされた不定形態が幾つか組み合わされる、それが新たな絵画の表現しない表現だ。

※2007年3月21日、完成
↑20100426公開
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