ただ単なる形態と色彩の組み合わせがあり、ただ文章があり、ただ音がある。それが表現の理想であり、それがすべて。
表現しない表現としての 絵画、小説、評論、他。限りなく無に近い絵画。 |
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文章 | |||||||||||||||
牽強付会 | |||||||||||||||
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攪乱をめぐって | |||||||||||||||
どこでもない場所で | どこでもない場所で | ||||||||||||||
どこでもない場所でv2 | |||||||||||||||
どこでもない場所で/001 ここでは誰もがうどんを食べに来る。たいていは観光や用事のついでに食べるとか、さまざまな料理の中の一種に入っていてそれを食べるとかだろうが、ここでは、うどんが目的となって誰もが訪れる。観光地は二の次だ。人によっては、観光地のはしごではなく、うどんのはしごだ、しかもそれはかなりメジャーな行動ではあるから不思議だ。日帰りで何件に寄って、うどんを何杯食べられるかが重要で、綿密な計画を立てて、人気店の行列を考慮して時間配分を計算して、誰もがうどんを食べに来る。それがこの土地特有の磁場なのだ。 うどん店は、中心部から周縁部まで広範囲に渡って存在しており、その数はいつか1000を越えるのではと囁かれている。うどん一玉100円前後という格安うどんを中心に、さまざまなヴァリエーションが楽しめるのが、魅力だ。なかにはそば粉100%という不可解なうどんまで存在しているというから不思議である。それは既にうどんとは言わないのではないか。 しかし、そんなうどん大国でも閉店してしまううどん店があるというから不思議だ。激戦区なのは確かだけれど、あまり美味しくないと思っても、それなりに繁盛しているのが、意外に普通なのだ。ここで、閉店するうどん店というのは、だから、味がどうのこうのではなく、借金の返済が不能になったとか、ギャンブルで失敗したとか、女性関係にトラブルを起こして商売どころじゃなくなったとか、本業のうどん店とはあまり関係がない理由で閉店せざるを得ないということなのだろう。 ここでは誰もがうどんを食べに来る。 どこでもない場所で/002 家の前にうどん店がある。土・日・祝日休日という割に店が開いてる時はかなりの繁盛振りだ。行列ができる程だ。何回か食べたことがあるが、こしがあってなかなか美味しいうどんだ。ここでは、普通ならかきいれ時の土・日・祝日休みも普通だ。不思議なくらいだけれど、平日に繁盛すればオーケーということだろうか。 そこそこ旨けりゃ程々でいいのだ、きっと。誰もがうどんを食べに来るのだから。でも、私には、うどんを食べに来るというよりは何か死にに来るようにしか見えないのだ。 誰もがここに死にに来るのだ。うどんを口実に。そこに流れるBGMは水越恵子「Too Far Away」だろう。なんて悲しい。 それは安倍なつみでも谷村新司でもなく、水越恵子『アクエリアス』所収「Too Far Away」だ。 どこでもない場所で/003 ここでは、うどんが主流だ。日本農林規格(JAS)では、丸麺や角麺の太さで区別しているようだが、そういう役所の定義には興味が持てないというのが正直なところだ。お役所仕事は現実とは相容れないのだ。それはこの国では真実だろう。ここでも。 どちらにしても、旨けりゃいいじゃないかっていうのが正直なところだから、結局は、定義はあまり意義がない。 どこでもない場所で/004 ちょっと離れた場所に位置するN島。フェリーで約1時間程度の距離だけれど、Bという教育系の企業が美術館や街並に現代美術を共存させる希有な試みをして国内外で評価されているのだけれど、最近は、新人の作品発表の場という側面をも持ち始めている。堅いことを言えば認可された現代美術が街と共存・共栄していくことに意義があるので、新人の作品発表の場という流行は少し違和感があるというのが正直な感想だ。 アートとは何か、現代美術とは何かを考えるには最適の環境ではある。日帰り、もしくは一泊で、アートに触れられる島。しかし、それがアート、現代美術のすべてではない。それは、あくまでも一時期のアート、現代美術の一様相でしかない。アートは、現代美術は、あらゆる場所に存在しているからだ。何がアートを存在させるのか、それを考えるのに最適の場所がここN島だ。 どこでもない場所で/005 ここは多数の讃岐うどん店と○ナカスーパーと○脇書店で構成されている。そのせいか全国規模の書店やCD店が入りにくいと良く聞くのだけれど、真意の程は定かではない。最近ようやく○伊國屋書店ができたばかりで、タ○ーレコードもたまに噂があるだけで進出する気配もない。ここでは、CDショップは、○ューク、○マル、○星堂、○アミュージック位がめぼしいところ。○アミュージックが一番いいのだけれど、隣県の○山本店に比べると品揃えに満足できず、だから、もっぱらCD購入は○マゾンや○天で実施することがどうしても多い。私の中では、○ワーレコード、○MV、○ァージンが揃って初めて都会の仲間入りだと思うから、ここは今も都会ではない。残念ながら。大型スーパーは、○めタウン、○ティ、○ジグラン、最近できた○オンで、まぁまぁ充実はしているが、やはり書店やCDショップに不満が残るのが残念だ。それもここの特徴ということか、こじんまりとして、…。 どこでもない場所で/006 ここでは、車の運転が滅茶苦茶だ。典型的なのは、ウインカーを出さないで平気で車線変更する車が多いことだろう。そりゃ、交通事故が多発するのも当然ってものだ。ウインカーを出しても車線変更を始めてから1回だけなんてのも非常に多い。無闇に右折しようとしたり、交通量の多い道路を横切ろうとしたり、運転マナーの悪さは群を抜いている。これは県民性のなせる技なのだろうか。しかもすごくとろい車と非常にせっかちな車の差が激し過ぎるのも現実で、普通に運転している車が最も迷惑をこうむるのだ。それらは、うどん店にセルフの形態が多く、行列を別にすれば店内に入って食べ物が出されるのが通常の飲食店に比べたら破格の早さだから、そういうことも関係しているのだろうかと疑ってみたくもなるのが正直なところだ。ったく、って感じだ、ここでは。 どこでもない場所で/007 表現しないことに憧れる。それは、いつからなのか、なぜなのか、ほとんど定かではないのだけれど。たとえば東野芳明が引用したサミュエル・ベケットの文章に非常に共感してしまう自分がいる。 「何も表現することがないという表現、 たよれるものが何もないという表現、 出発点が何もないという表現、 表現する力も表現したいという欲望もないという表現、 しかも、絶対に表現しなければならないという強制だけはあるという表現」 (サミュエル・ベケット) 〜東野芳明『ジャスパー・ジョーンズ』P189(美術出版社) この適確で感動的な指摘はなんだろう。そう、表現しない表現の原点はここにあると言って過言ではない。文脈や文意を勝手に誤読しているだけかもしれないが、この文章に全面的に共感してやまない。 どこでもない場所で/008 絵画の真実とは何か。そんなものは存在するのだろうか。急にこんな疑問が私の頭から離れなくなった。特に主張やヴィジョンが確固とあるわけではなく。ただ、漠然と、絵画の真実とは何かという曖昧な想念に私は突然に支配されたのだった。 たとえば、映画とは馬の映像を馬だと詐称することだと言ってのけたゴダールを持ち出すまでもなく、絵画もまた馬の表象を馬だと詐称する虚偽・虚構の芸術にほかならない。それは真実ではなく、虚構なのだ、それが絵画の真実なのではなかったか。 そのようにして絵画は常に真実だと詐称し続けて来たからこそ、ルネ・マグリットはパイプの絵を描いて「これはパイプではない」とそっと囁いたのだろうし、ヨゼフ・コスースは本物の椅子と椅子の写真・辞書の定義をひとつの壁に並列して見せたのではなかったか。それは、絵画こそ虚偽・虚構の装置なのだと、控えめに彼らは主張したのだと私には思われて仕方ない。 絵画の真実とは何か、果たして絵画に真実はあるのだろうか。それは質問自体が間違っているだろうか。 どこでもない場所で/009 絵画は常に人を騙して来た、それが真実だ。あるはずのないものをあるものとして描き、見るものを信じ込ませて来たのだから。その罪状が戦争画として日本の最近では語られはしなかったか。いつだってそれが真実だという表情・身振りで絵画は虚偽・虚構を隠蔽して詐称して来たのだ。それは潔い姿なのか。たとえAV女優がどれだけあえぎもだえ、あそこを濡らしまくろうが、これは虚構だと言い兼ねないアダルト・ビデオとは雲泥の差だ。 常に、絵画は、真実だという表情しか持たない。それが絵画の真実だ。虚偽・虚構が真実なのだ、それが絵画だ。 虚偽・虚構とは何か、それはないものをあるといい、あるものをないといい、単なる画像を食べられると言い募ることにほかならない。その典型が絵画だというのは言い過ぎだろうか。しかし、ドラマや演劇もまた同様だろう。試しに演劇やドラマで、演じる者たちが役名ではなく、芸名や本名で演じたらどうなるか、多分、役柄という虚構と、自身である芸名・本名が錯乱し合い混乱するのではなかったか。 常に表現とは、虚偽・虚構の装置なのだ。絵画が悪者というわけではない、絵画がその典型だというだけのことだ。 どこでもない場所で/010 絵画とは、虚構・虚偽の装置の別称である。それは、音楽も同様ではなかったか。 たとえば、テクノやアンビエントのぐしゃぐしゃの音楽や、ステーヴ・ライヒの『ドラミング』『クラッピング・ミュージック』を聴けばそれが明確になるだろう。そこではメロディーやハーモニーは極力ミニマル化し、リズムよりもビートが優先され、激しく、または静かに紡ぎだされる。そこでは、音楽がいかに構造化された情緒の装置として君臨しているかが明確化されるだろう。たとえばジョン・ケージの「4分33秒」を思い出せばいい。そこには音楽ホールという環境と、音楽という時間があっただけで、いかに音楽が構造化された情緒の装置と化しているかが暴露されていたはずだ。 単なる音、単なる音楽、それが真実の音楽ではなかったか。だからこそテクノやアンビエント、音響派の作品は、何も表現しないのだ。ただ音だけが、ただ音楽だけがある。 ただ、音だけが、音の組み合わせだけが、ある。 それが音楽自身の密かな夢である。 どこでもない場所で/011 絵画もまた、単なる形態と色彩の組み合わせを密かに望んでいるのではないだろうか。 何も表象しない、単なる絵画。シニフィエを疎外したシニフィアンだけの絵画といえば良いのだろうか。色彩も形態も、具体的な対象を表さず、情緒的な感情や情念を象徴することもない、単なる形態と色彩の組み合わせだけの絵画。悦楽的な、ただ存在するだけの、絵画。それが絵画の真実ではないか。それは、虚偽・虚構の装置であることから自ら脱却することでもある。真実の絵画に。 ただ、単なる形態と色彩の組み合わせだけが、ある。 それが絵画自身の密かな夢である。 どこでもない場所で/012 しかし、絵画の真実が、具体的な対象を表さず、情緒的な感情や情念を象徴することもない、ただの単なる形態と色彩の組み合わせだけの絵画であり、悦楽的な、ただ存在するだけの、絵画なのだとすれば(音楽も同様だろう)、小説はどうなのだろうか。そう、小説もまた恐ろしくも虚偽・虚構の装置ではなかったか。だからこそ高橋源一郎は『さようなら、ギャングたち』『あ・だ・る・と』『日本文学盛衰史』と何作にも渡り、虚偽・虚構の装置にしか見えない作品を創り続けて来たのではなかったか。 小説もまた虚偽・虚構の装置から脱却する手立てとして、書かれた単語も文章も、具体的な対象を表さず、情緒的な感情や情念を象徴することもない、ただ書かれただけの、悦楽的な、ただ存在するだけの、もちろん文脈なども不在の文学を目指さなければならないだろう。それが文学の使命なのだ。絵画に限ったことではない。 そこには、いや、結論を急ぐのは控えよう(というか、既に結論は出てしまっているが)、これからは、一つずつ論じて行く必要があるだろう。 真実に向けて。 どこでもない場所で/013 常に音楽も、小説も、絵画も、表現のパターン(それは、いくつもの技法や手法の際限のない組み合わせによるものにほかならない)に基づいた虚偽・虚構の装置にほかならない。そうであるからこそ、ここから何が可能かと問わねばならない。 否定形が好きだ。たとえば表現しない表現。たとえば描かないことで描くこと。絵画ではない絵画。音楽ではない音楽。小説ではない小説。ないものねだりということだろうが、否定形が好きだ、何よりも。それがゴスの精神だと自分では勝手に解釈しているのだけれど。解釈しない解釈? どこでもない場所で/014 表現しない表現、それが理想だ。大げさな表現も、緻密な表現も今はもう必要ない。単に何も表現しない表現(きっとそれはゴス的表現ではないが、精神的にはゴスそのものとしての表現であるはずだ)。表現しない表現、それが絵画の・小説の・音楽の真実であり、理想なのだと思う。単なる形態と色彩の組み合わせ、それが美の・美意識の理想であり、最終形態である。 表現しない表現。 それは、たとえばオウテカのような表現、オウテカのような絵画。 どこでもない場所で/015 それは、表現しない表現。 それは表現しないことを理想とする表現。 それは、虚偽・虚構の装置ではないからこそ真実である表現。 あるがままの表現しない表現。 絵画も、音楽も、そして小説もまた。 沈黙に既に表現が宿っている。だからこそ、最小限の表現で表現は成立するのだ。 最小限にこそ表現は冴える。 単なる形態と色彩の組み合わせ。 どこでもない場所で/016 絵画とは、単なる形態と色彩の組み合わせを理想とする表層こそ絵画の理想だ。ただ単なる形態と色彩の組み合わせがある、それが絵画の真実であり、真実の絵画であるだろう。小説・音楽も、また。 ただ単なる形態と色彩の組み合わせがある。ただ文章がある。ただ音がある。それが表現の理想である。 どこでもない場所で/017 ただ、単なる形態と色彩の組み合わせがある。それだけだ。限りなく無意識に近い無作為・非表現の絵画。物語もイメージもほとんど存在しないような、極限で繰り広げられる即興劇。ロラン・バルトが自分の絵画を浪費と名付けたような、悦楽的な、しかし、何も表現しない零度の絵画。絵画の真実、真実の絵画、それがこれから始められる絵画の定義だ。そこにこそ、絵画の真実、真実の絵画が現前するだろう。今は、そう信じている。 ただ、単なる形態と色彩の組み合わせがある。それは、ただ単に色付けされた不定形態が幾つか組み合わされるだけの作品であるだろう。アクリルガッシュや折り紙、イラストレーターなどで、色付けされた不定形態が幾つか組み合わされるだけの作品、それが絵画の新たな理想だ。ただ、そこには形態と色彩の組み合わせがあるだけだ。何かが表現されるわけではない。無造作に色付けされた不定形態が幾つか組み合わされるだけだ、それが絵画の理想であり、絵画の真実・真実の絵画である。 ただ、色付けされた不定形態が幾つか組み合わされる、それが新たな絵画の表現しない表現だ。 どこでもない場所で/018 何もないもの、身も蓋もないものが好きだ.表現しない表現が好きだ。理由は分からない。初めてジョン・ケージの「4分33秒」という楽音の存在しない音楽を知った時は衝撃的だった。現代音楽の基本タームであった無調や現実音の加工などよりも遥かに衝撃的だった。なぜなら、そこには何もないに等しく思えたからだ。感動もない、入魂の制作などという思い入れもない、そんな淡白な作品に惹かれて止まない。マーレヴィッチの「白い正方形」も同様の衝撃を覚えた。白い紙に白い正方形がムラ描きされただけの純粋絵画。そこには何もないに等しい。それが感動的だ。情念も物語も希薄な、淡白で潔癖な作品。 だからこそ、私の作品は、無に近付いて行く。単なる彩色不定形態の組み合わせ、何かをイメージしたわけではない即興的な線描による絵画、何が写っているかも定かではない加工された写真、など。 それが私のすべてだ。なぜか、理由は不明だ。そういうものだからだとしか今は言えない。しかし、それはあまりにマイナーな存在であることは充分に予想できると自覚はしている。しかし、マイナーな存在にこそ革命的な何かが宿っているのではなかったか。 どこでもない場所で、どこでもない絵画を、どこでもない写真を夢見ている。 どこでもない場所で/019 空が青い。それだけでいい。 どこでもない場所で/020 路上に円シールを規則的に、または、即興的(ランダム)に貼付ける。路上に折り紙や色紙を即興的に切って不定形態化して糊付けして貼付ける。ただ、それだけの単なる作品の実現を夢見る。貼り終えたらフッと去り、遠くから観察するか、影に隠れてヴィデオカメラで撮影する。闇雲に唐突に貼られた円シールや彩色不定形態を見て人がどのような反応をするのか、しないのか、を。 飲食店に入り料理を注文し待つ間や運ばれた料理を食べる間に、テーブルや壁面に円シールを規則的に、または、即興的(ランダム)に貼付ける。または折り紙や色紙を即興的に切って不定形態化して糊付けして貼付ける。店員がどのように反応するのかを観察するか、影に隠れてヴィデオで撮影する。闇雲に唐突に貼られた円シールや彩色不定形態を見て店員や客がどのような反応をするのか、しないのか、を。 そんな無闇な行為もまた作品ではなかったか。作品行為ではないか。 どこでもない場所で/021 ●○●○ ●○●●○●○ ●○●○●○●○ ●○●●○○●○ ○○●○●○ ○●○○ ●○ ○ どこでもない場所で/022 記憶がない。記憶が薄れる。昨日のことなど、ほとんど覚えていない。昨日は何を食べた? 何をした? 誰と会って、何を話した? しかも幼少の記憶もほとんどない。謎が多過ぎる。 どこでもない場所で/023 あの坂を越えれば、広大な海だ。紺碧の大海原だ。そこから何も考えずに飛び込もう。その死の間際に悟りが得られるのではなかったか。青い空ではなく、赤い空。海は燃えているか。想い出は消失してしまい、新しく生まれ変われるか。 海は、もうすぐだ。 あの坂を越えれば、広大な海だ。紺碧の大海原だ。そこから何も考えずに飛び込もう。その死の間際に悟りが得られるのではなかったか。青い空ではなく、赤い空。海は燃えているか。想い出は消失してしまい、新しく生まれ変われるか。 赤い海。 どこでもない場所で/024 何も描かれていない画帳こそ何よりも美しい。そこには紙独特の汚れや模様が染み込んでいる。それこそが芸術だ。宇佐美啓司のゼミの画学生たちの画帳こそが何よりも美しかった筈だ。海を前にして何も描かれない空白の画帳こそ。空白の芸術作品。ジャン・コクトー、ロバート・ラウシェンバーグ、ロバート・ライマン、…。そこにあるのは、無。存在しない無がそこの存在するという不思議。 何も描かれていない画帳こそ何よりも美しい。 どこでもない場所で/025 30歳をかなり過ぎてから毎晩の飲酒が習慣化した。それまでは週に1回程度しか飲酒の習慣はなかったのだけれど。まずは軽くビール。そして、時が経つに連れて日本酒、そこから焼酎へ。最近ではビールを食事しながら飲み、その後にロックで焼酎をたしなむ、それが絶対に外せない習慣。休肝日という概念はない。そのおかげで夜は寝付きが良くなった。昔は眠れなくて苦労したのだ。そのおかげで朝が辛くなった。細かいことをすぐに忘れるようになった。集中力が稀薄になった。それでも飲酒をやめる気は毛頭ない。 どこでもない場所で/026 ここには秋葉原がない。○ニメイトとゲー○ーズが細々とあるだけだ。ここにはタ○ーレコードもヴァー○ン・メ○ストアも○MVもない。○伊國屋書店と○屋書店が最近できたけれど、○善も○ブロ・ポートもない。松○も○ザーラも○ォルクスも○ニーズもない。しかし、うどん屋は1000店に近い位ある。だからほとんど毎日のようにうどんを食べるしかない、というのは言い過ぎだろうか。 明日も、とりあえず、うどんだ。 どこでもない場所で/027 音楽が好きだ。ロック、ジャズ、クラシック、現代音楽、歌謡曲。演歌と民謡以外はオール・マイティーに音楽が好きだ。しかし、ライヴやコンサートに行くのは好きではない。そこでは音楽に没頭するしか選択肢がないからだ。聴きながら何かするというスタンスが最も好きなのだ。音響がうるさ過ぎるというのもあるのだけれど。ライヴやコンサートのDVDを流しておくのは、だから、嫌いではない。プロモーション・ヴィデオを流しておくのも嫌いではない。音楽を聴き、見る、それ以外の選択肢がないことが許せないのだ。屈折した意見だとは思うけれど。 その逆に美術は、ただ観ていたい。感じていたい。だから美術館や画廊に赴き、気に入った作品を観るのは全く苦にならない。特に現代美術の大きな作品は、ことのほか大好きなのだ。 そして、自分もまた、自分の絵画作品で個展を開き、美術館に陳列されるのが大きな夢である。限りなく無に近い不定形態の組み合わせ作品や、即興線描作品が展示されること。 どこでもない場所で/028 そこには、無が、ある。ない筈の無がある。無。 無 どこでもない場所で/029 ショパンのピアノ・ソナタ「葬送行進曲」は、あまりに素晴らし過ぎないか。短調から長調への意外な移調。鬱と躁の同時存在。 どこでもない場所で/030 孤独、もしくは、孤高。 どこでもない場所で/031 白の上の白の上の白の下の白を想像せよ。 どこでもない場所で/032 ステイーブ・ハウと武満徹。 どこでもない場所で/033 写真は加工されて、何が写っていたのか不鮮明になるために存在する。そこには被写体への愛は存在しない。写真への愛だけが存在する。 写真は曖昧化し、私は不鮮明になり、…。 「我々は往々にして、不鮮明な像をこそ必要としているのではないか?」 (ルートヴィヒ・ヴィトゲンシュタイン『哲学探究』第71節) どこでもない場所で/034 どうして、こんなに不器用なのか。我ながら驚愕だ。何よりも自分の作品をどこへどうやって売り込んだらいいのかなんて皆目見当がつかない。自分の作品が公募に入賞するような傾向の作品だとは毛頭思えないし。どこでもない場所で、どこへも行けないまま、ここにいる。では、どうすればいいのか。 どこでもない場所で/035 池田満寿夫の初期版画の描線が最高に好きだ。「便所の落書き」と称し称された猥褻で卑猥な細々とした荒い描線の集積。その線こそ、池田満寿夫の本質ではなかったか。 池田満寿夫は、もっと、評価されるべきである。 どこでもない場所で/036 描くこと、描くこと、描くこと、今は、それが、すべてだ。 描くこと。 どこでもない場所で/037 絵とは、額縁に他ならない。そう思えてしまう展示が良くある。悲しい限りだ。額縁絵画とでも呼ぼうか。 どこでもない場所で/038 いつもの車の流れが多い片側1車線で、車がすれちがってギリギリの街道を、ミラーを見ながら全力疾走で自転車で右折する。右側からゆっくり車が走って来るが、大丈夫と見越して横切って右折したが、そこから視界が真っ白。何が起こったのか分からない。数秒後、自転車共々、道に転倒。スクーターも転倒している。頭、肩、右膝、左手首に痛み。スクーターに突っ込んだらしい。一瞬、起き上がれないで、自転車にからまった足を抜くのに往生。ふらふらと立ち上がると、サラリーマン風の若い男が「大丈夫?」と声をかける。こりゃ、自分から突っ込んだんだから警察沙汰にしたらなんか損っぽいと瞬時に思い、「大丈夫」と答えて、自転車に乗る。スクーターはそのまま全速力で立ち去る。それから1日中、右肩、右膝、頭も打ったのか右こめかみあたりが軽く痛み、左手首はかなり痛い。左手をついたらしく、手首の内側が内出血していて、力を入れるとかなりの痛み。やれやれ。これが、…。 どこでもない場所で/039 痛い。 どこでもない場所で/040 作曲は多種多様にできると自負しているが、どういうわけかメロディーを覚えられない。だから思いついたメロディーを録音したり、譜面化したりは極力するのだけれど、人前で演奏ができない。ギターでメロを弾き始めても途中でメロが頭から指から逃げて空白化してしまう。そんな奴はミュージシャンになんかなれるわけがないじゃないか。浮かぶそばからメロが逃げて行く。何も残らない、何も構築できない。なんて悲惨で残酷な人生なんだろう。 どこでもない場所で/041 死んでしまえばいいのだろうか、何もかもうまく行かなかったら。しかし、それで何が解決するのだろうか。 どこでもない場所で/042 線を引くこと。どこまでも、いつまでも、ずっと線を引くこと。 どこでもない場所で/043 下手だの上手だの、そういうレベルを超えた極限での作品は、密かに地道に描かれ続ける。 即興で。スピーディーに。そこで、無の表現はさらに鍛えられる、 無の表現として。無、有、。 どこでもない作品。 どこでもない場所で/044 それは愛、もしくは恋、それとも単なる欲情。そこでは言葉は意味をなさない。 では、何が起こったのか、それは不明だ。無意識。 恋。夢。愛。性交。それとも、…。 どこでもない場所で/045 希望と絶望、それとも希望の明日。 どこでもない場所で/046 そして、今も左手首が痛い。衝突の後遺症か。やれやれ。 どこでもない場所で/047 近所にあって、好きだったうどん屋が移転。昼食はたいていそこだったので、昼食選びが困るのだ。うまく行かないものだ。 どこでもない場所で/048 とにかく今は考えずに手を動かして描くことだ。描くだけだ。それがすべてではないか。 どこでもない場所で/049 それとも何もしていない者の単なる強がりでしかないのか、。私には何も発展の方法はあり得ないのか、。どうなのだ。誰も私のことなど気にもしていないだろう。私も他人など気にもしていないのだからだ、それは、当然だろうが、しかし、私は、どこへ行けばいいのか、どこにも行けないのか。発展の方法はあり得ないのか。あるのなら、どうすれば、手に入るのか。 どこでもない場所で/050 さだまさし「精霊流し」「無縁坂」「縁切寺」。ある意味、負性の美学か。ゴスも負性の美学ではなかったか。だから人生の負性に目が行くのか。何もかもうまく行かない、できないのか。黒い服に白い服だけの。 どこでもない場所で/051 椹木野衣の文章っぷりを参考に自由に書き連ねることを徹底せよ。そこから展開せよ、できるのならば。 どこでもない場所で/052 美術館がある。外観が純白の美術館。内装も純白だ。しかし、良く見ると、白い壁には、色鉛筆や絵具で微かに何かが描かれている。不定形な形態や即興的な線描が不規則に描かれている。それは、どれもが微小なので、良く見ないと分からないくらいだ。壁だけじゃない、天井や床にもひっそりと何かが描かれている。あぁ、これこそ、アートだろう。これこそ、美術館だろう。儚く美しい。 どこでもない場所で/053 芸術とは無へと至る至高の営為である。 どこでもない場所で/054 ブラック・ヘッド。新たな名義? どこでもない場所で/055 これが、愛なのか。これが芸術なのか。 どこでもない場所で/056 何もない。無。それこそアートの理想形態だ。なぜなら、芸術とは無へと至る至高の営為であるからだ。その先は、無。それが最高の理想だ。無。 無とは、黒であり、同時に白である。無の顕現が、黒であり、同時に白である。 そこにあるのは、無。芸術の理想。描かれてしまったもの、それは無へ至るための痕跡もしくは、無そのものだ。極限の黒、極限の白、極限の無、もしくは、翻って極限の赤、もしくは極彩色、多色。そして、断然、断固として、無。 どこでもない場所で/057 明日のことなんて、誰にも分からない。 昨日のことなんて、誰にも分からない。 すべてを無に葬れ、そこから無に帰し、無が始まる。無の増殖こそ、無の極限、無の理想だ。 今日のことなんて、誰にも分からない。無を想え、無へ至れ、それがすべてだ。 どこでもない場所で/058 無を描け。 無を聴け。 無を想え。 無を、…。 どこでもない場所で/059 「無」 どこでもない場所で/060 巨乳という妖しくも悩ましい単語は、いつ生まれたのだろう。それを超える単位として爆乳、超乳なんていうのもあるが、それらはいつ生まれたのだろう。 巨乳とは、無ではないか。だからこそ、巨乳に惹かれるのだ。無に惹かれるのと同様に巨乳に惹かれるのだ。ただ無を感じたいのと同じように、ただ巨乳を見ていたいのだ。その限度を超えてしまった大きなバストを愛おしく見ていたいのだ。その揺れる様を、揉まれる様を、じっくりと見ていたい。芸術とは巨乳へと至る営為なのだ? どこでもない場所で/061 巨乳好きとは、文化の飼い馴らしに他ならない。だからこそ巨乳好きは、いやらしいだのすけべだのいらぬお節介を焼かれるのだ。文化のコードとしては、性に関しては暗黙の内に了解されるのが暗黙の了解なのだ。だから巨乳好きなどと公言してはならない。オカルティズムのように隠秘しなければならないだろう。 男はなぜ女の裸が好きなのか、それは本能でも、壊れた本能でもなく、あからさまに文化の隠蔽装置の仕業だろう(もしくは、そのすべて)。だから、なぜ、巨乳好きが見下されるのかは明確だ。隠蔽されなければならないという文化のコードに違反するものは、社会的に抹殺されるか、見下され笑われるのだ。どうして豊満なバストに惹かれるのかは理由が不明であり、本能が壊れた人間に特有の現象であり、しかし、それは子孫繁栄の契機でもあるのだから、文化の隠蔽装置が見逃すはずはないのだ。 どこでもない場所で/062 そこにある巨乳。 どこでもない場所で/063 使われていない倉庫街の倉庫を改造して画廊にしているスペースがある。外観はうらぶれた倉庫だが、中は真白に塗装されて、同じサイズの白い作品が並べられている。それぞれに単語が貼られているだけの作品。日本語で椅子、空、死、芸術、など。これもありかと。 どこでもない場所で/064 使われていない倉庫街の倉庫を改造して画廊にしているスペースの隣にやはり同じく画廊スペースがあり、そこは、漆黒の内装で大きな黒い作品が並べられている。黒く塗られたキャンバスに黒い絵具で即興描画されているだけの作品。すべてが無題だ。 どこでもない場所で/065 関東の感覚だと、かけうどんは単なる素うどんで、天ぷらうどんは、天ぷらののったメニューだが、ここでは不思議なことにかけうどんを頼んで、天ぷらを好きに選んでが主流だ。何がかけうどんか判然としない。店によっては、天ぷらうどんや肉うどんなど通常のメニューも、もちろんあるのだけれど。 どこでもない場所で/066 構造を変えること。何かを変えること。生まれ変わること。一新すること、刷新すること。 どこでもない場所で/067 毎日、何かしら進めること。作成すること。休まないこと。続けること。描くこと。作ること。 どこでもない場所で/068 いったい何をどうすればいいのか? 構造を方法を変えたいのだけど、どう変えればいいのか? すべてが空回り。一歩も前進していないような疑心暗鬼に捕らわれて、何も良い方向に進んでいない錯覚に陥る。いや、それは錯覚ではない? 手立てはないのか? どこでもない場所で/069 デジャヴ‐常に何か見たような既視感に苛まれる。それはそれ。ポストモダン状況として無視。いったい何が絵画を成立させているのか? どこでもない場所で/070 どこにいても異邦人。 どこにいても馴染めない。 当然、人付き合いも苦手だ。 だから、引きこもりに憧れる。 そんな暮らし方ができるなら、どんなに素晴らしいかと思う。 すべてが空回りしている。 負の悪循環。 どこにも居場所が、行き場所がない。 常に、そうだ。 ただ、茫然としているだけだ。 どこでもない場所で/071 描くことだ。 仕事をしているとは言え、 とにかく描くことだ。 本を読むよりも、今は、 少しでもいいから 描くことだ、それに尽きる。 どこでもない場所で/072 何も進んでいない。何も変わらない、何も変えられない。それは、自分に営業力・交渉力がないのに尽きる。しかし、それも変えられない。作品を企画し、制作する力はあっても、それをプレゼンし、交渉し、制作費を捻出する、そういうパワー=才能が明らかに欠如している。だからこそ、今の自分でしかないのだ。しかし、それを変え、営業力・交渉力を身に付けられるのかと言えば無理な話なのだ。だから、どこにも行けない。最悪の悪循環だ。だから、描くしかない、案を練るしかない、しかし、そこから一歩も踏み出せない。堂々巡り。誰か助けて欲しい、それが正直な想いだ。どうしょうもないことだけれど。 それでも描かねばならない。進まねばならない。立ち止まってはならない。しかし、…。 どこでもない場所で/073 何がないってわけでもない。 何があるってわけでもない。 でも何もうまく行かない毎日。 何が悪いのか? 何が良いのか? すべてが不明瞭だ。 すべてが曖昧だ。 それが芸術ということか? それが芸術ということだ。 どこでもない場所で/074 来年は48歳を迎える。何も完結できていない48歳を迎えるのだろう。これだけのことはしたと胸を張って自慢できることは、多分、何もない。中途半端に生きて来たってことが自慢できることなら、話は別だけれど。仕事も絵画も何もなし得ていない、それが、自分の正直な心境であり、実際なのだ。 もう、天国への階段を登るしかないのか。 誰だって、死んで行くのだ、孤独に。何をしたのかなんて、どういう意味があるのか。そう、リルケ、君は、どう思うだろう。 リルケ。 どこでもない場所で/075 このまま終わってしまうのかと思うと非常に異常に不安だ。いても立ってもいられなくなる。だからと言って、どうにもできないのだけれど。 絵画の真実・真実の絵画は、展開でき得ないのだろうか。それが現実なのか。 どこでもない場所で/076 何かひっかかって気持ち悪い。理由は不明。何もうまく行かない毎日だからか。それとも他に理由があるのか。無意識裏に何かひっかかっているということか。それとも? この思考停止状態・白紙状態は何を意味するのだろう。 自分が理想とするアートのように、思考も曖昧で不明瞭だ。だからか余計に飲酒に走り結局は先に進めない。悪循環の恒常化。やれやれ。 では、どうすればいいのか。すべては曖昧で不明瞭なままだ。 どこでもない場所で/077 何をするべきなのか。 常に思考は白紙状態だ。 どこへ向かうべきなのか。 常に思考は白紙状態だ。 今は描くこととそれを公開することしかできない。 どうすればいいのか。常に思考は白紙状態だ。 どこでもない場所で/078 まずは滞り中の小説の続きを進めること。 そろそろクライマックスを迎えるので、挫折せず完了させること。 そして、次の小説を始めること。 どこでもない場所で/079 巨乳が好きだ。見ているだけで惚れ惚れする。素晴らしい。巨乳。 どこでもない場所で/080 描くことと描かないこと。その哲学。その間の哲学。 夢のその先? 描くことの追究、描かないことの追究。 どこでもない場所で/081 意識と無意識の間、そこに何か充実した輝きがある。 無意識の作業を徹底すること? どこでもない場所で/082 人は、常に、何かを描こうとする。 人は、常に、何かを表現しようとする。 私は、常に、描こうとしない。 私は、常に、表現しようとしない。 そういう立ち位置で描こうとしている。何も意味しない絵画、それが理想だ。 どこでもない場所で/083 ただ描くこと。そして、どこへ、向かうのか、何をしないのか? どこでもない場所で/084 埋め尽くすこと。線で、色で、円で。 ただ描いて、ただ埋め尽くすこと。 描くことの力、埋め尽くすことの力、ただ描き尽くすことの力。 無意識の意識。 どこでもない場所で/085 ランダムネス(即興)の強度、それが理想だ。 どこでもない場所で/086 無。 無へ至る芸術。 無をめざす芸術。 無と化す芸術。 無。 どこでもない場所で/087 何もない、無。 それが芸術。 どこでもない場所で/088 描きなぐっただけの絵画、それこそ芸術の理想、芸術の極限。 美術、写真、絵画、音楽。 どこでもない場所で/089 何も描かないことが理想の絵画。 無へと至る絵画。 どこでもない場所で/090 コードでもモードでもなくドード。それはダダの進化系。表現しない表現を構築する。 どこでもない場所で/091 いったい何をどうすればいいのか。相変わらず何もうまく行かない毎日。まるで迷宮入りしてしまったような理不尽で不可解な現実世界。何もうまく行かない。何も変わらない生活。何も変えられない毎日。このままどうすればいいのか。すべては曖昧で不明瞭なままだ。すべてが謎のままだ。なす術もないのか。 どこでもない場所で/092 突然、愛用のiBookの挙動がおかしくなった。起動してもメニューバーやハードディスクがない。何もできない。セーフブートも駄目。インストールCDで起動しても、ハードディスクが灰色でアクセス権がない。ファーストエイドは修復不能。テックツールプロで標準テストするが、ボリューム構造にエラーのオンパレード。長時間の修復作業の末にも関わらず復旧せず。作業中断、持ち越し。修復できるのか? それともまたもハードディスク交換になるのか? 不運としか言いようがない。やれやれ。 結局、初期化して、ソフトやらデータやら入れ直して、復旧。…。 どこでもない場所で/093 ★⇒ ◎★^= =ヾ/… /★★= ■■■■■ ■■■■■ ■■■■■ ■■■■■ ■■■■■ ■■■■■ ∈ ★■∈………………★ ★■∀・∀・=★ どこでもない場所で/094 ■■■ ■■■ ■■■ ●●●●●●●●●● ‖ ‖ ‖ ‖ ‖ 」 【■】 ∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞ どこでもない場所で/095 ■ ■■ ■ ■ ■ ■■■ ■■ ■ ■ ■ ■ どこでもない場所で/096 記号だけの作品を制作すること。何も意味しない表現としての記号だけの羅列による作品を制作すること。 どこでもない場所で/097 ヽヽ‐ ´`¨ ¨ ■】 〓 〓ヽヾゝ〃 ■ ■∴ ^ どこでもない場所で/098 次の手立てを考えること。 秋恋を進めること。毎日更新すること。 アナログ作品とデジタル作品も進めること。新たな展開の兆しを見出だすこと。 どこでもない場所で/099 作品の案を思い付き、考えを練る。不定形態の彩色、白塗り絵画、ヴァギナ・ドロウイング、略奪写真。 どこでもない場所で/100 ⇒^ ■■ ■■ ∴∴∴ 〃^ヾゝヽ ヽ^∴ ¬∂∵┌┐└┘┬┴┐ どこでもない場所で/101 どこへ行くのか、どこへ向かうのか、何をするのか、何をすべきなのか。どうすればいいのか。止まるな、前に進め。 どこでもない場所で/102 ┌┴┬┐ | ┴ ┌→┘ | | | ┘ ■■■■■■■■■■■ ∀†‡ Ξ どこでもない場所で/103 小説ではない、のか。 最小限の文字や記号による。 絵画ではない、のか。 最小限の線描や文字による。 どこでもない場所で/104 だが、なぜ、ゴスなのか? どこでもない場所で/105 無に魅かれる心性こそゴスなのだ。 ゴシック・スピリット。 無こそ我が墓碑銘。 無。 どこでもない場所で/106 そこで、ひかれた線、塗られた色、そのままで良い。 意味を持たせるな、意味を与えるな。 線も、色彩も、そのままでいい。 表現という意味を持たせた時に、線も色彩も死に絶える。表現しない・意味しない、ただ描かれた線、塗られた色彩にこそ生は宿る。 どこでもない場所で/107 』 † ‡ ヾ〃§ ***↑¬ Γ ┏┳╋┻━┓ ■ どこでもない場所で/108 ■ ━┓ ↑ ╋╋╋╋╋╋╋╋╋╋╋ ■ ┻╋┳┓ |
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