ただ単なる形態と色彩の組み合わせがあり、ただ文章があり、ただ音がある。それが表現の理想であり、それがすべて。
表現しない表現としての 絵画、小説、評論、他。限りなく無に近い絵画。
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牽強付会
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攪乱をめぐって
攪乱をめぐって どこでもない場所で
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【挨拶をめぐって…】
 例えば、人は、飽きもせずに毎日毎日、似たり寄ったりの代わり映えのしない挨拶を、執拗に何度も何度も繰り返し続ける(それが共同体、もしくは現実社会の礼儀だから当然なのだけれど)。「お早う」とか「今日は」とか「今晩は」とかの儀礼的な言葉でも、「さようなら」だの「行ってらっしゃい」だのという凡庸でありきたりな慣用句でも、「ヤア!」とか「ヘイ!」などの簡略化された身振りや、単なるお辞儀とか軽く振られた手の敏捷な動きでも、それらがどれだけ豊富で多様な仕種に見えようと、どれもこれも同一の構造に基づく挨拶の一形態、バリエーションに他ならない。なぜ、人は、これ程までに執拗に似たり寄ったりの代わり映えのしない挨拶を十年一日のごとく繰り返し続けるのか。それが文化だから礼儀だから、と言ってしまえばそれまでだけれど、人は、どれだけ気分が優れなくても、機嫌が少し悪くても、毎日毎日、慣用句と化したまま三葉虫のような色合いをして風化しつつある挨拶を自動化した無意識の所作として執拗に繰り返し続ける。だが、そのあまりの同一さ加減にさすがに一応は気が引けるのか、初対面の相手や目上の者、仕事上の付き合いでの決まりきった人間関係では、凡庸な慣用句と化した面白味のない挨拶を執拗に繰り返し続けるけれど、自分の親しい相手には、より一層の親密さを表現すべく、以前とは一変して挨拶そのものの自由度を増やそうとして、さまざまな試みを繰り広げてみる。例えば、肩を叩いたり、笑顔を浮かべるだけだったり、尻を触ってみたり、相手の鼻の頭を右の人差し指で軽く押すように触ってみたり、場違いな言葉を並べてみたり…。しかし、挨拶それ自体をよくよく観察してみるなら、挨拶という行為そのものには大した意味が込められていないとしても、挨拶をすることによって円滑な人間関係を維持しようという隠れた意図が仄かに見えて来る筈だ。多分、そこでは挨拶の内容よりも(もちろん、挨拶の内容が、社会的な規範・ルールとしての枠組みを違反・逸脱しない程度という留保が着くが)、挨拶をするという行為そのものが重要なのだ。だから、一般常識の範囲内に収まる形態であれば、挨拶の方法や内容は必ずしも重要ではなく、あくまでも挨拶をするという行為そのものによって、人と人との相互のコミュニケーションを円滑に進めることが最も重視されるのである。だからこそ挨拶を一切しない者は、規模はどうあれ、何等かの社会的・共同体的な制裁を受けることになる。もちろん、それらのことは、人の意識上でも身体上でも自明の理として自動化しており、挨拶を疑問視する人間は、多分、極端な小数派か異端者に違いないだろうが、挨拶は、人の思考や行為を無意識に拘束する形式的で恣意的な差異の体系に他ならない。そこでは、人は、あくまでも自動化した客体であって、決して主体ではない(例えば、少し荒唐無稽な設定だけれど、挨拶体という生命エネルギーが存在していて、人々が日々繰り返す挨拶に費やすエネルギーを吸収することによって、その生命を維持させていると仮定したら、どうだろうか。そこでは、あくまでも挨拶体という生命エネルギーが主体もしくは主であって、挨拶を無意識に繰り返す人間たちは、挨拶体のために自ら奉仕する客体もしくは従または奴隷でしかないのである)。

 例えば、天気・天候の会話。それは、まるで挨拶と瓜2つに思える。天気・天候の会話は、挨拶の一変奏に他ならない。なぜなら人は、毎日毎日、飽きもせずに繰り返す似たり寄ったりの代わり映えのしない挨拶の続きとして、相変わらず似たり寄ったりの代わり映えのしない天気・天候の会話を執拗に繰り広げるからだ。ロラン・バルトによれば、《人が天気の話をするのは、何も言わないためである》のだが、同一の構造に基づいた形式的な天気・天候の会話が、その形式性のゆえに挨拶ともども人間関係を維持し、相互のコミュニケーションを円滑に進行させ確立させるのに大きく貢献してしまうだろう。晴れているのか、曇っているのか、風が強いかどうか、降り続く雨がいつ頃になれば降りやむのか、暑いとか寒いとか、雨は好きか嫌いか、昨年の今頃と比較して過ごしやすいかどうかなど、これも挨拶と同様、社会的な規範・ルールとしての枠組みを違反・逸脱しない範囲内であれば、何が語られようと構わないし、そこで重要なのは、あくまでも、その形式であって、その内容なのではない。社会的な規範・ルールとしての枠組みを違反・逸脱しない範囲内なら、内容は、さして重要ではなく、あくまでも挨拶の、そして、その流れとして続けられる天気・天候の会話の、その形式こそが重視されるものなのだ。しかも、それらは、自動化した無意識の所作として執拗に繰り返され続けるだろう。まさに、挨拶も、天気・天候の会話も、人の思考や行為を無意識に拘束する、形式的で恣意的な差異の体系に他ならない。

 挨拶も天気・天候の会話も、なぜ形式的なのかと言えば、内容よりも、その行為される形式のほうが重視されてしまわざるを得ないからであり、なぜ恣意的なのかと言えば、それらの行為のどれもが絶対的なものではないからである。例えば、ひとつの文化圏に限定しても挨拶や天気・天候の会話の形式も内容も時代が変われば異なるし、もちろん視点を変えて異文化と較べてみれば、その相違点は歴然とするだろう(前者は通時的視点、後者は共時的視点だ)。そこでの共通項は、単に挨拶をするという概念だけに限られてしまうしかないだろうし、挨拶をするという概念も単語も存在しないという事態もあり得ないとは断言できない。ある1つの文化内では、挨拶の形式も内容も、社会的な規範・ルールとしての枠組みが、ある程度は定められており、その文化圏内の人々には自明の理として自動化しているが、そこから別の文化圏内に移動すれば、当然それまでとは異なる社会的な規範・ルールとしての枠組みがあり、それが、その文化圏内の自明の理として自動化している筈である。文化が異なれば言語が異なり、文法も生活習慣も、まさに、さまざまな面が異なるのだ。文化Aから文化Bへと移動すれば、あらゆる状況が相違する。システムが、コードが、意味が異なるのだ。そして、それらのすべてが、自動化した無意識の所作として、すべての人間の頭上に(心身のすべてに?)君臨しているというのが現実である。だから、あらゆる場で、すべての人間に君臨しているシステム、コード、意味について、まず明らかにしなければならないのではないか。このままでは、すべてが、システム、コード、意味の無意識の奴隷でしかないように思えて仕方ない。そうではないだろうか。


【見ることをめぐって…】
 例えば、春を迎えて少しずつ暖かくなって初夏の香りが仄かに感じられ始める頃、女性たちのファッションが徐々に軽やかになって行く。薄い生地のブラウスや短いスカートが、特に意識しなくても目につくようになる。赤やピンクの花束を抱えたり、過剰なまでに短いミニスカートの裾をひるがえしたり、新商品のブラジャーでバストアップを狙って胸の大きさやその胸の谷間を強調したり、春から夏にかけて、女性たちのファッションが急に色めき立つのが、この季節の特徴だ。しかし、ここで、のんびりとファッション概論を繰り広げる訳でも初夏の軽いスケッチを展開する訳でもない。ここで、これから記されるのは、見ることをめぐっての素(粗?)描である。しかも、あくまでも男性の視点を中心とした記述にならざるを得ないことを、あらかじめお断わりしておきたい。
 例えば、街を歩いていて、胸元を強調したファッションの、その胸の谷間や、挑発するように過剰に短いミニスカートの中身を(しかし、ミニスカートの中の下着が見える見えないに一喜一憂するというのも大人気ない事態なのだが)、できれば覗いて、じっくりと見てみたい、もしも差し出されたら遠慮なく触ってみたいと思う、そのエロティックと形容されざるを得ないだろう欲望、もしくは欲動。街頭、雑誌などに氾濫する写真、アダルトビデオなどの風俗映像、ポルノグラフィックなイメージの過剰な氾濫、その他その他とにかく覗いてみたい、触ってみたい、触れ続けたいという理不尽なまでの視線の欲望、もしくは欲動、脳下垂体とペニスへと連動する快楽への欲求。それらは、一体、何に由来し、何に基づくのだろうか。すべてが望めば手に入れられる程に氾濫している現在。街頭で、路地裏で、その手の風俗営業の店で、あらゆるエロスが入手できるだろう。SEXそのものが、あらゆるプレイが、例えば、女子高生の使い古しの下着までが入手できるだろう。すべては、所持金と多少のテクニックと要領の良さ、そして、運の善し悪しで決まるだろう。そして、風俗映像の氾濫、また氾濫(ノアの方舟は洪水によって流されたのではなく、実は、氾濫する風俗映像の洪水によって遥か遠くまで流されたのではなかったか。それとも、誰かが間違ってパンドラという名の風俗映像の匣を開けてしまったのか)。

 世界は、エロティックな欲望で埋もれつくされているかのようだ。世界は、エロティックな欲望で濡れているかのようではないか。それも永久に。では、そのようなウェットな状況を準備したものは何か。私がここで問いたいのは、この1点である。つまり、男性は、なぜ女性の裸を見たいのか、見続けたいのかについて突き詰めて考えること。本来、男とは、そういう生き物なのだと言ってしまえば、それで終わりなのだけれど、ここで改めて問いたいのだ。なぜ男は女の裸を見たいのか、と。例えば、この問いに対して本能から説き起こすべきだろうか。しかし、人間が、そもそも本能の壊れた生物なのだとすれば、本能から説き起こしても、あまり有益ではないし、信憑性にも欠けるだろう。たとえ、本能を、人間の場合は欲動と呼称し直しても、事態は、あまり変わらないに違いない。結論を先に記してしまうなら、それは本能とか欲動に根拠を多少は関連付けられながら、実は、人間のすべての欲望は文化の一形態に他ならないということだ。要するに、それは、男性中心社会(ロゴス中心社会と言い直しても同じだ)が自明の理として自ら構築した(それも一朝一夕の一夜漬けではなく、百年千年単位で積み上げ続けた1種の強固なヒエラルキーである)男性用の色眼鏡なのである。もちろん、女性には女性のための色眼鏡がある。それらは、あらゆるシチュエーションの中で、人が誕生し死に至るまで調教され、矯正され、教育され、自明(つまり、色眼鏡をかけていることを忘却し、その状態が自然なものに感じられるということ)の理となり、自動化して行く訳である。だから、文化が異なれば、男性と女性の、いわゆる視線の演じ合う相姦(関)劇の様相も、当然、微妙に異なるだろう。つまり、男には「女の裸を見たい」「女の服を脱がせたい」などの強迫観念(男性用の色眼鏡)があり、女には「よりきれいになりたい」「美化されながら服を脱がされたい」などの強迫観念(女性用の色眼鏡)があるということだ(もちろん、細かい言い回しや個人個人での思いとしては、それぞれ微妙に異なり、僅かな差異も存在するだろうが、ここにあげたのは、あくまでも1つの典型としてのものであるので、あらかじめご了承願いたい)。もちろん、男性と女性に共通して関わる兼用の色眼鏡もある。では、それらの強迫観念を何が生み出したのか。まさに、文化そのものが、である。文化とは、その文化圏に属する人間すべての共同幻想の総体を意味する。だから、個々の人間の思いは、何等かの形態で程度の差こそあれ、文化そのものに影響し、同時に強く影響されている。だから、個人個人は、それぞれが自分自身を主体であると錯覚し、女性のスカートの中を覗こうとしたり、男の視線を感じつつ、それとなく挑発したり、視線の相姦劇を演じ続け、繰り広げ続けているけれど、よくよく根底から観察し考察し直してみれば、真の主体は、あくまでも、それらの個人個人ではなく、大方の意に反して文化そのものなのである。要するに、主体は、個人個人の人間たちではなく、個人個人を含めた人間たちのすべてにより生み出された共同幻想の総体そのものに他ならない。だから、あくまでも主役は文化なのである。文化を神話と呼称し直しても、状況は、それ程変わらない。神話とは、ある文化の思考や行為の枠組みの総体の別名であって、一般的に思われているように昔話とか絵空事とかの意味ではない。だから、誰もが神話の中の住人に過ぎないのである。そこでの主役は、あくまでも神話そのものなのである(挨拶体という生命エネルギーの例を思い起こして欲しい。そこでは挨拶体が主体であって、挨拶を繰り返す人間たちは、みな等しく客体であった。文化や神話のレベルでも様相は、ほぼ同じだ。あくまでも主体は、文化であり、神話である。たとえ文化や神話を創り出したのは私たち人間であると主張しても、あくまでも主体は文化であり神話なのだ)。

 今夜もまた、男たちは女を求め、女たちは女たちで着飾ったり誘惑したりして過ごすだろう。例えば、男性に限って言えば、女の胸のふくらみ、その谷間を服の上から眺めること、その服を脱がせ、その胸の大きさを確かめ、手で触れ、口で吸い、スカートの中を想像し、太股をさすり、スカートを脱がせ、下着の上から触り、濡れて来た下着を脱がせ、見つめ、その濡れた部分を吸い、舐め、そして………しかし、あくまでも主役は彼ら彼女らではなく、いつも常に文化であり神話である。彼ら彼女らは、文化の、そして神話の奴隷に他ならない。だから、すべてを準備したのは、文化であり神話である。では、それらの文化を、幾つもの神話を創り出したのは、一体、誰なのだろうか。それを神と呼称すれば、問題は解決するだろうか。しかし、文化とは、神話とは、1人1人の人間たちの総体が自ら創り出した共同幻想に他ならない。だから、人は、自ら創り出した文化や神話に、無意識に束縛され拘束されて身動き1つ取れずに、文化の、そして神話の奴隷に陥っているのである(鶏が先か卵が先かと問うのと同じく、人が先か神話が先かと問う価値は、果たして、あるだろうか。しかし、こう仮定したら、どうか。この世に宇宙さえ存在しなかった時に、神話エネルギーのみが存在し、浮遊していた。神話エネルギーは、神話や文化や欲望のエネルギーを吸収して生存し、巨大化する生命体だ。そこで、神話や文化や欲望を求め、その奴隷となって生き続ける人間を、神話エネルギーは、手間暇かけて生み出したのだ、と。それは、あまりにも長い年月だった。そして、文化の、神話の、無意識の奴隷、人間の誕生である)。果たして、どこからどこまでが自分自身の意識的な意思であり、欲望であり、希望であると断言し得るだろうか。人は、自ら創り出した文化や神話に無意識に束縛され拘束されて身動き1つ取れずにいる、文化の、そして神話の奴隷に他ならないのである。まずは、この事実を認識すること。そして、すべてを、ここから始めること。
 文化。神話。物語。そして、システム、コード、意味。

【システムをめぐって…】
 視点を変えよう。端的に言ってしまえば、すべての物事は、どれもこれも皆、システムに他ならない。この宇宙のすべての基盤にあって、すべての存在・非存在を可能ならしめている何か、それがシステムである。すべては、システムが多種多様に複雑多岐に連鎖し合い、組み合うことで存在を許されているのだ。要するに、すべての物事それぞれは常にシステムとしてしか存在し得ないのであり、それら多種多様なシステムそれぞれが複雑多岐に連鎖し合い、組み合うことで、途轍もなく膨大で複雑な怪物的状況を呈しているのである。

 だが、システムについては、まだ、語られ始めたに過ぎないというのが現状だ。では、システムとは何か。それは、果たして、何物のことを指すのか。
 構造を持つ体系(別の言い方をすれば、要素を持つ階層的かつ共時的秩序とも、恣意性に基づく差異の体系とも言い換えることも可能だろうが)として、あらゆる領域で、あらゆるレベルで(あらゆる階層で)、多種多様な名称を与えられながらも、必ず複雑多岐な関係の網の目(ネットワーク、もしくは錯綜体)として存在し、すべてを規定している途轍もない何物か、それがシステムに他ならない。すべての物事それぞれは常にシステムとしてしか存在し得ないのであり、それらシステムそれぞれが多種多様に複雑多岐に連鎖し合い、組み合うことで、途轍もなく膨大で複雑な怪物的状況を呈しているのである(例えば、1枚の絵の上に重ねて絵を描き、更にその上に別の絵を描き、またも違う絵を重ねて描くという行為を何度も執拗に繰り返した時に現出する1点の絵画という入れ子状の作品を想起してみること)。人と人との関係も、まさに数え切れない程に多種多様なシステムが錯綜し、構成する関係の網の目(もしくは結節点)として現前しているのだ。要するに、すべての物事それぞれは常にシステムとしてしか存在し得ないのであり、それらシステムそれぞれが連鎖し合い、組み合うことで、途轍もなく膨大で複雑多岐な怪物的状況を呈しているのである。システムとは、あらゆる領域で、あらゆるレベルで(あらゆる階層で)、多種多様な名称を与えられながらも、必ず複雑多岐な関係の網の目(ネットワーク、もしくは錯綜体)として存在し、すべてを規定している途轍もない何物かの総称である。しかし、そんな怪物的状況をシステムの一語で呼称し尽くすのは無謀なのだが、システムと呼称する以外に良い方法はないように思われる。なぜなら、多種多様な場面で個別に呼称される個々の名称に、逐一従っていたら、このシステムの錯綜体たる怪物的状況を一挙に把握することなど永遠に不可能だからだ。例えば、システムの別名を個別に脈絡もなく列挙すれば、以下のようになるだろう。それは、ルール(規則)、コード(規制)、制度、体系、秩序、言語、規範、共同幻想、物語、文化・社会体系、法体系、貨幣概念、本能(正確には欲動)、倫理、政治形態、物質や生物の生成原理、細胞学、仮想現実、環境生態系、心理学、プログラミング(コンピューターシステム)、交通・移動システムの作動原理、経済システム、構造主義、ポスト構造主義、サイバネティックス、コミュニケーション、ゲーム、自己組織化、コノテーション(共示)、無意識、脳科学、線形・非線形科学、生理学、機械の作動システム、生体内の循環系統、宇宙の構造、資本主義、大衆社会、遺伝子学、情報、表現、神話など、その種類や分野、レベルに応じて、変幻自在としか言いようのない君臨ぶりを示している。まさに、それは、怪物的状況である。これらすべてをシステムの一語で記述してしまうのは、無理があるのは始めから承知している。しかし、個別の名称に従っていたら、このシステムの錯綜体たる怪物的状況を一挙に把握することなど永遠に不可能なのだし、これらすべての現象の根底を見るならば、そのどれもが構造を持つ体系として、つまり、システムとして、それぞれが円滑に作動しているのは明白なのである。実際、システムは、あらゆる領域で、あらゆるレベルで(あらゆる階層で)、必ず複雑多岐な関係の網の目(ネットワーク、もしくは錯綜体)として存在し、すべてを規定しているのだ。だからこそ、システムについて語ること、これがすべての重要な論点なのである。ここでは、構造(無構造も当然含む)を持つ体系という規定をした上で(要素を持つ階層的かつ共時的秩序とも、恣意性に基づく差異の体系とも言い換えることも可能だろうが)、システムの一語を執拗に用いることとする。すべての物事それぞれをシステムとして捉える、このような物の見方をシステム論と呼称する。それは、すべての物事それぞれを緻密に対象化する視点である。人が意識しようとしまいと、すべての物事(生命、環境、その他、存在するありとあらゆる事物のすべて)は、それぞれが常にシステムとして存在している。そして、それらシステムのそれぞれが連鎖し合い、組み合わさることで、途轍もなく膨大で複雑な怪物的状況を呈しているのである。システム論は、それらの自明化した営為のすべてを(つまり、すべてのシステムを、まさに、システムのすべてを)明白にしたいと望むのである。すべては、システムの連鎖・組み合わせに他ならない。だから、すべては、システムとして明示できる筈である。自明の理として見えない何物かとなっているすべてのシステムのすべてを明示することを目論まねばならない。なぜなら、文化も神話も、まさにシステム以外の何物でもあり得ず、文化の、神話の奴隷から解放されるためには、まず、文化というシステムを、神話というシステムを、できれば、ありとあらゆるシステムのすべてを知らなければならないからだ。

【自分というシステムをめぐって、コードをめぐって】
 すべてがシステムであるということは、もちろん、自分自身もまたシステムの複合体(錯綜体)に他ならないということである。だから、自分自身とは、どのようなシステムによってどのようなシステムとして作動しているのかを熟考すること。自分自身の無自覚な物語を自覚し、可能な限り明白にすること。「私は、どのようなシステムの錯綜体であるのか」と問い続けること。例えば、どのような生体システムを基盤として、どのような文化(思考、趣味嗜好、感性など)システムを織り上げているかを、自覚しようと常に試みること。自分自身というシステムを明示もしくは自覚することを常に続行しなければならない。

 物語るな。表現するな。それは、不自由な営為に他ならない。なぜなら、物語や表現の場に身を置く時、人は、物語や表現に操作されているという逆説的な状態に陥ってしまうのだ。誰もが、自分自身の意志で物語り、表現していると錯覚しつつ物語り、表現するが、そこでは主体である筈の語り手自身が、表現者自身が、他の主体と交替しても何も変わらない(稚拙さだの、深さだのといった差異がそこにはあるだけだ)。いや、物語や表現の場にあっては、主体であると思われていた語り手自身や表現者自身が、いつのまにか客体となってしまうだろう。物語や表現の場とは、あまりにも理不尽で荒唐無稽な磁場なのだ。端的に言えば、常に物語と表現が主体なのである。そこでは、何が語られようと構わない。たとえ何が表現されようと変わらない。何かが語られ、表現されさえすれば良いのである。そこでは、いつも物語と表現が主体である。しかも、反体制の言説が体制を図らずも補完してしまうように、物語批判もまた物語としてしか現前し得ず、物語を図らずも補完してしまうだろうし、表現もまた同様である。だから常に物語は語られ、常に何かが表現され、そして常に物語と表現は勝利する。極論すれば物語が自分の意志で人に物語らせ、表現が自分の要望のために表現させるのだ。そこでは、人は、常に物語と表現の奴隷に他ならない。だとしたら、物語と表現の奴隷から解放されるためにどうにか有効だと思われるのは、自分自身というシステムについて熟考することではないだろうか。そして、ありとあらゆるシステムについて目を向けること。つまり、どのようなシステムによって物語や表現という制度(もしくは、コード)が成立し、支えられているのかを問い続けること。システムの対象化と相対化を繰り返す試みを執拗に続けてやめないこと。

 常に、すべての物語や表現を成立させ、支えているのは、一体、何だろうか。端的に言えば、それは、コードに他ならない。物語や表現に限らず、すべてを規制し、存在を可能とさせている何物かが、コードなのである(では、コードとは何か。それは、太い紐でも配線のための電線でも円弧上の二点間を結ぶ線分でも音楽においての和音の名称でもなく、ましてや暗号の別名でもない。文字を書く「ろう板」、あるいは「綴じた本」に由来する用語で、法律や法則から規則や規制として、もしくは共同幻想として、あらゆる現象を規定し、拘束する記号体系の総称だ)。すべての存在は、中心も周縁もなく錯綜し合い、複雑に絡み合うコードの相互作用に規制されている。例えば、1つの記号とは、複雑に絡み合ったコードの連鎖・交錯上の1つの結節点であって、そこでは、それぞれが主導権をめぐって、コードとコード、記号と記号が常に攻め立て合う空虚な闘争の場であると言って良い。物語も表現も、まるでそれらが自由で、とらわれのない思考や行為の配置であるかのような錯覚を煽り立てているけれども、本当は、すべてを規制し、存在を可能とさせるコードによって、束縛も拘束もされている不自由な何物かの別名に他ならない(人は誤解し、信じ込んでいるが、物語も表現も、まさに、不自由な営為以外の何物でもない虚構の産物なのである)。例えば、言語。それは、統語論(統辞論、構文論)や意味論などの煩雑なコードの体系に規制され、構造化されて初めて機能する壮大な体系に他ならないのである。言語を習得し(言語の多様なコードの体系に拘束されて、というのが実情である)、自明の理としてしまえば、人は、自由自在に物語っていると錯覚し得ると言うのに過ぎないのである。例えば、文化。それは、まさに、錯綜し錯乱した恣意性の集積したシステムの多数多様体なのであり、別の言い方をすれば、膨大で複雑に絡み合った多種多様な記号の束なのである。そして、それらを成立させ、支えているのがコードに他ならない。だから、文化の内部で無自覚に生きるなら(つまり、文化の産出する情報を無自覚に摂取するなら)、人は、文化の捏造する不自然な規範に操作される奴隷となるしかないだろう。物事すべての根底を観察するならば、どのような場にあっても、膨大なコードにより規制され、拘束されているのが理解できる筈である。物事が常に意味してしまい、意味付けられてしまうのは、まさに、コードにより規制され、拘束されているからに他ならないのである。それは、あらゆる領域で、あらゆるレベルで(あらゆる階層で)、多種多様な場で、必ずすべてを規定している途轍もない何物かに与えられた名称である(まさに、それは、コードの織物だ)。要するに、物語や表現だけではなく、すべてを規制し、存在させているのがコードに他ならないのである。だからこそ、あらゆるシステムを規制し、存在させているコードを明白にするという作業が残されているのではなかったか。記号の意味作用を、複雑に絡み合うコードの交錯を読み取り、明示すること、これである。少なくとも、常にコードを自覚しようとする姿勢が求められていると言って良いだろう(ただ、ここで、システムとコードの関係について補足的に簡単に触れておくなら、大局的に見れば、すべてはシステムの連鎖・組み合わせに他ならないのであり、個別的に見れば、それらシステムを規制し、拘束し、存在させているのが、まさに、コードに他ならないということである)。
 生きるとは、しっかりと準拠しているのにも関わらず、意識もしないで自明の理として受け入れている思考や行為、規則(要するに、自覚されていないにも関わらず、確固として束縛している巧妙で狡猾な制度という装置のことだ)に、自分自身がどれだけ縛られ、どれほど拘束されているかを明白にしようという営為に他ならないのではないか。生きるとは、すなわち、さまざまな制度に準拠も依拠もしながら自動的に紡ぎ出される思考や行為の総体そのものである物語を明示し、明白にしようと目論むことに他ならないのだ。その時、自分自身がどれだけ制度や物語に毒されているかを自覚することが、生きるための有効な戦略となるだろう。まずは、自分自身というシステムについて、システムを規制し、存在させているコードの体系について、深く高く強く速く熟考してみることである。できるものならば、すべての物語や表現を成立させ、支えているコードのすべてを明白にしようとすること。自明の理として自動化しているコードそのものを、微に入り細にわたって明白にしようとする視線こそ求められる筈なのである。その視線は、やがて、いつか、すべてのシステムのすべてを白日のもとに暴き出すだろう。

 すべてのシステムのすべてを明示すること。
 あらゆる記号の意味作用を読み取ること。
 すべてのシステムを規制しているコードのすべてを明白にすること。
 生き続けながら、生きるとは、どのような制度や物語に支えられているのかを見極めようと常に努めること。生きつつ問うのだ。自分自身がどのようなシステムを前提にして存在し得ているのかを、そして、どのようなコードの体系に規制され、拘束されている不自由な存在であるのかを、生きながら(つまり制度に寄り添い、物語を紡ぎ出しながら)問い続けること。可能なら、すべてのドクサを白日のもとに暴き出し、並べ、そして、それらを超え、横にずらし、パラドクサの運動を引き起こし続けてやめないこと。生きるとは、すべてのシステムのすべてを可能な限り明白にしようという営為の総称なのである。それは、すべてのコードのすべてを明白にしようという視線の総称でもあるだろう。目を閉じるな、何があろうと目を見開いて、しっかりと見ることだ、すべてはシステムに過ぎないということを、すべてはシステムの連鎖・組み合わせに他ならないということを、すべてはコードにより規制され、拘束された不自由な何物かに過ぎないということを。


【物語をめぐって】
 だが、人は、なぜ、こんなにも物語が好きなのだろうか。誰もが物語が好きで好きでたまらないらしいのだ。それは、生れてから死ぬまで、しかも、起きてから眠るまで(いや、眠ってからも夢物語に耽るのだから、ほとんど休みなく)延々と続けられる営為なのである。自分で物語ること、そして、他者の物語に接すること。人は、常に物語り続けるのをやめようとは決してしないし、他者の物語に接することもまた同様である。では、物語とは何か。それは、簡略に定義するなら、言語記号や映像の記号を配置して意味付けられた営為の総称である。噂話(ゴシップだのスキャンダルだの)、自慢、独白、体験談、伝記やノンフィクション、身の上話や自伝、夢物語、住居や住宅に関する幾つもの習慣やルール、ファッション、流行、マスメディアもしくはマスコミ(ラジオ、テレビ、新聞など)の流す広告やCM・ニュース・ワイドショーや各種の番組、昔話、神話や民話、看板、標識、文学(詩、小説など)、美術や音楽などの藝術、大衆文化(ポップスやロック、歌謡曲やメロドラマなどの雑多な多様体)、映画、写真、ドラマや演劇、アニメーションや漫画、言語論、記号学、科学、批評、哲学、論理学、数学、社会学、や生態学、落書き、その他、架空の事象でも現実の出来事でも理念的な記述でも粗雑な内容でも緻密で体系的な論述でも、言語記号や映像の記号を配置して意味付けられた営為であるのなら、すべてが物語である。それは、1語でも1文でも1枚のスナップでも、充分に機能する虚構の産物である。物語ること、そして、物語に接すること(もしくは、表現すること、そして、表現に接すること)。人は、一生涯、物語と表現を愛して愛してやまないのである。まさに、人間が人間である所以は、自分で物語り、他者の物語に接することにあると言って良い。まさに、物語とともに生れたのが人間なのである。いや、人間の誕生と時を同じくして物語も登場したのではなかったか。今や物語の数は膨大である。人や文化が変わろうと、時代が異なろうと、物語は産出され続ける。人間が絶滅でもしない限り、物語は不滅である。

 この世界のどこを見ても物語ばかりではないか。右を向いても左を見ても、表現された何物かしか存在し得ないのだと言わんばかりである。まさに、この世界は、表現で溢れかえっている。物語と表現の大海で溺れようとしているのが、人間の真の姿だと言えるかもしれない。そして、それらの物語や表現を更に加速させ、多種多様化している物がある。作品である。それは、膨大で途轍もない虚構捏造の場だ。つまり、作品とは、物語そのものや表現それ自体(別の言い方をするなら、虚構一般である)を、自明の理として持続させ、維持させ続けるための巧妙で狡猾な装置に他ならない。まさに、作品という場は、物語も表現も、まるでそれらが自由で、とらわれのない思考や行為の配置であり、文脈化され意図的に解釈された虚構の連鎖ではないかのような錯覚を煽り立てる。しかし、本当は、物語も表現も不自由な何物かの別名に他ならない。常に人は誤解し、信じ込んでいるが、物語も表現も、まさに、不自由な営為以外の何物でもないのである。なぜなら、物語や表現の場に身を置く時、人は、物語や表現に操作されているという逆説的な状態に陥ってしまうからである。そして、誰もが、自分自身の意志で物語り、表現していると錯覚しつつ物語り、表現する(しかも、物語り、表現するためには、文法構造や語彙といった言語の体系を習得し、自明の理としなければならない)が、そこでは主体である筈の語り手自身が、表現者自身が、他の主体と交替しても何も変わらない(稚拙さだとか、深さだとかといった差異がそこにはあるだけだ)。いや、物語や表現の場にあっては、主体であると思われていた語り手自身や表現者自身が、いつのまにか客体となってしまう。端的に言えば、常に物語と表現が主体なのである。そこでは、何が語られようと構わない。たとえ何が表現されようと変わらない。何かが語られ、表現されさえすれば良いのである。そこでは、いつも物語と表現が主体である。しかも、反体制の言説が体制を図らずも補完してしまうように、物語批判もまた物語としてしか現前し得ず、物語を図らずも補完してしまうだろうし、表現もまた同様である。だから常に物語は語られ、常に何かが表現され、そして常に物語と表現は勝利する。そして、それらの物語そのものや表現それ自体を自明の理として持続させ(恣意性の体系である記号の交錯により文脈化され、意図的に解釈された虚構の連鎖ではないかのような錯覚を煽り立て)、維持させ続けるための巧妙で狡猾な装置が、作品に他ならないのである。極論すれば物語が自分の意志で人に物語らせ、表現が自分の要望のために表現させるのだ。そこでは、人は、常に物語と表現の奴隷に他ならない。

 まさに、物語も表現も溢れかえっている。この世界のどこを見ても物語ばかりではないか(それは欧米化した文明社会だろうが、欧米化を免れ続けている非文明社会だろうが、程度の差こそあれ根本的には同じだ)。右を向いても左を見ても、表現された何物かしか存在し得ないのだと言わんばかりである。まさに、この世界は、物語と表現で溢れかえっている。しかし、それを可能にしているのは、一体、何だろうか。どれだけ多様に物語れるかではなく、物語ることを可能とさせている前提条件(例えば、言語というシステムとか、社会というシステムの錯綜体とか)こそを問うべきなのではなかったか。思うに人間とは、システムの連鎖・組み合わせに依存していつつも、そのシステム自体を分析・解明しないではいられない存在であるのと同時に、システムに依存しているという事実は自明の理として、すっかり忘却し去ったままで、新しい物語や思考の言説を生み出すことに異常に熱中する生物システムらしい。まさに制度的な生物というのが人間の真の姿なのかもしれない。人は、そこで、知らぬ間に物語に操作されているという無間地獄に陥るのである(しかも、そこは、異常に快い陶酔的な世界でもあるのだが……)。人が意識しようとしまいと、宇宙の成り立ちや原子の動向、自然生態の実際から本質、各種の言語の仕組みから社会・文化の秩序・規則・現象、人間という生体の研究、思考や欲動の実質、動植物の淘汰から行動など、すべての物事(生命、環境、その他、存在するありとあらゆる事物のすべて)は、常にそれぞれがシステムとしてしか存在し得ないのである。そして、それらシステムのそれぞれが連鎖し合い、組み合わさることで、途轍もなく膨大で複雑な怪物的状況を呈している。だから、今、必要なのは、流動し錯綜せるシステムの流体力学とでも言うべき方法なのである。そうであるのに、人間は、システムの内実を問うことよりも、システムの連鎖・組み合わせを自明の理として、饒舌に物語を創作し、披露し続けることに異常に熱中する(だが、そこでは、人は、物語に操作されているという逆説的な状態に陥ってしまうのだ。そこでは、人は、常に物語の奴隷に他ならない)。人は、なぜ、それ程までに執拗に物語り、あくまでも表現を続けてやめないのか。そして、物事が常に意味してしまい、意味付けられてしまうのは、なぜなのか。なぜ、すべては、常に必ず意味してしまうのか。しかし、まずは、物語や表現を成立させ、支えているシステムそれ自体こそを問わねばならないだろう。端的に言えば、すべての物語や表現を成立させ、支えているのは、常にコードである。物語や表現に限らず、すべてを規制し、存在を可能とさせている何物かが、コードなのである。すべての存在は、中心も周縁もなく錯綜し合い、複雑に絡み合うコードの相互作用に規制されているのである(要するに、それは、コードの織物と言って良い)。例えば、1つの記号とは、複雑に絡み合ったコードの連鎖・交錯上の1つの結節点であって、そこでは、主導権をめぐって、コードとコード、記号と記号が常に攻め立て合う空虚な闘争の場であると言って良い。物語も表現も、まるでそれらが自由で、とらわれのない思考や行為の配置であるかのような錯覚を煽り立てているけれども、本当は、すべてを規制し、存在を可能とさせるコードによって、束縛も拘束もされている不自由な何物かの別名に他ならない(人は誤解し、信じ込んでいるが、物語も表現も、まさに、不自由な営為以外の何物でもない虚構の産物なのである)。物事が常に意味してしまい、意味付けられてしまうのは、まさに、コードにより規制され、拘束されているからに他ならないのである。それは、あらゆる領域で、あらゆるレベルで(あらゆる階層で)、多種多様な場で、必ずすべてを規定している途轍もない何物かに与えられた名称である(まさに、それは、コードの織物だ)。要するに、物語や表現だけではなく、すべてを規制し、存在させているのがコードに他ならないのである。だから、あらゆるシステムを規制し、存在させているコードを明白にするという作業が残されているのではなかったか。記号の意味作用を、複雑に絡み合うコードの交錯を読み取り、明示すること、これである。少なくとも、常にコードを自覚しようとする姿勢が求められていると言って良いだろう。そして、ありとあらゆるシステムについて目を向けること。つまり、どのようなシステムによって物語や表現が成立し、支えられているのかを常に問い続けること。システムの対象化と相対化を繰り返す試みを執拗に続けてやめないこと。そして、多種多様で複雑多岐なシステムの錯綜体を規制し、存在させているコードの体系そのものを自覚し、明白にしようと常に努めること。
 物語り、表現しながら、物語るとは、表現するとは、どのようなコードによって成立し、支えられているのかを見極めようと常に努めること。物語り、表現しながら、問い続けること。それが、どのようなコードの体系によって規制され、拘束されている不自由な営為であるのかを、まさに、物語り、表現しながら問い続けることが求められているのだ。それが、物語と表現の奴隷から解放されるための唯一の手段である。あらゆるコードを追い詰め、明白にすること。まさに、それだけが残された唯一の方法だ。


【コードの織物をめぐって、物語の沈黙をめぐって…】
 誰もが同じ物語を繰り返している。いつも表現は同じ何物かの繰り返しだ。それでも物語も表現も気が遠くなる程に溢れている。例えば、物語恐怖症を患った人間が存在したなら、どうなるだろう、と、ありもしない空想を弄んでみたくもなる。彼は、きっと生きては行けないに違いない。「もう物語るな。もう表現するな。黙れ。この世界を似たような物語、同質の表現で溢れさせるのは、もう、やめてくれないか」と、彼の叫びが聞こえて来そうだ。物語恐怖症の人間は、この世界では生きては行けないだろう。それは、物理空間からインターネットに代表されるコンピューターによる情報空間へと世界が拡大して行っても、その状況は、さして変わらないだろうと思う。そこでも、彼の叫びは、きっと同じだろう。常に物語が跳梁跋扈する。しかも、それは、神出鬼没だ。
 物語も表現も溢れかえっている。人は、なぜ、それ程までに執拗に物語り、あくまでも表現を続けてやめないのか。そして、物事が常に意味してしまい、意味付けられてしまうのは、なぜなのか。なぜ、すべては、常に必ず意味してしまうのか。そんな問いの幾つかに敢えて答えようとするなら、人間とは、存在とは、そういうものなのだと言うしかないのだろうか。ここで用意されている既に明白な解答は、物語や表現を成立させ、支えているのは、コードであり、物語や表現に限らず、すべてを規制し、存在を可能とさせている何物かが、コードなのだという同語反復的一文である。すべての存在は、中心も周縁もなく錯綜し合い、複雑に絡み合うコードの相互作用に規制されているという訳である(まさに、世界のすべては、コードの織物なのである)。例えば、1つの記号とは、複雑に絡み合ったコードの連鎖・交錯上の1つの結節点なのであって、そこでは、主導権をめぐって、コードとコード、記号と記号が常に攻め立て合う空虚な闘争の場であると言って良い。物語も表現も、まるでそれらが自由で、とらわれのない思考や行為の配置であるかのような錯覚を煽り立てているけれども、本当は、すべてを規制し、存在を可能とさせるコードによって、束縛も拘束もされている不自由な何物かの別名に他ならない(常に人は誤解し、信じ込んでいるが、物語も表現も、まさに、不自由な営為以外の何物でもない虚構の産物に他ならないのである)。物事すべての根底を観察するならば、どのような場にあっても、膨大なコードにより規制され、拘束されているのが理解できる筈である。物事が常に意味してしまい、意味付けられてしまうのは、まさに、コードにより規制され、拘束されているからに他ならないのである。コードとは、あらゆる領域で、あらゆるレベルで(あらゆる階層で)、多種多様な場で、必ずすべてを規定している途轍もない何物かに与えられた名称である。要するに、物語や表現だけではなく、すべてを規制し、存在させているのがコードに他ならないのである。
 コードが、まさに、コードがすべてを規制し、拘束し、存在を許している。

 世界はコードの織物である。

 誰も表現し得ない場、誰も物語ることのできない時空間、まさに、そんな不可能な磁場を用意し準備すること。何も意味しない場、物語も表現も存在し得ないような磁場。物語も表現も一瞬で凍り付き、空白化し、無となり、物語も表現も存在し得ないような、どことも知れない場。誰もが沈黙を強制されてしまう強引で強力な磁場。何も物語らない物語、何も表現しない表現、何も物語れない物語、何も表わさない表現、そんな不可能な存在を誘い出そうとする不可能な試み。しかし、たとえ不可能だとしても、私が心から望むのは、そんな不可能な場であり、限りなく無に近い何物かであり、原理的で構造的な視線に基づくであろう何かに他ならない。誰もが当然で自明の理として無意識に繰り返す同じ物語、類似した表現のすべてを覆し、沈黙へと至らしめること。それは不可能だろうか。
 この世界のどこを見ても同じような物語ばかりではないか。右を向いても左を見ても、表現された何物かしか存在し得ないのだと言わんばかりである。まさに、この世界は、同質で似たような表現で溢れかえっている。物語り、表現しながら、物語るとは、表現するとは、どのようなコードによって成立し、支えられているのかを見極めようと常に努めること。物語り、表現しながら、問い続けること。それが、どのようなコードの体系によって規制され、拘束されている不自由な営為であるのかを、まさに、物語り、表現しながら問い続けることが求められている。それが、物語と表現の奴隷から解放されるための唯一の手段である。あらゆるコードを追い詰め、明白にすること。それだけが残された唯一の方法だ。すべての物語や表現を成立させ、支えているコードのすべてを明白にしようとすること。自明の理として自動化しているコードそのものを、微に入り細にわたって明白にしようとする視線こそ求められる筈なのだ。その視線は、やがて、いつか、すべてのシステムのすべてを白日のもとに暴き出すだろう。物語と表現、そして更にコードへと向けられた視線は、知らない間に従ってしまい自明の理として自動化してしまったシステムを端緒として、すべてのシステムのすべてを逐一明白にしたいと望む筈である。制度と化し、自明の理として自動化したシステムが、どれだけ存在しているだろうか。それは、まさに、等比級数的に膨大であるだろう。しかし、それでも、制度と言い、物語や表現と言い、更にコードと言い、作品と言う、自ら無意識に従っている多種多様なシステムだけでなく、ありとあらゆるシステムの全容を明白にすることこそが重要なのであり、物語と表現の奴隷から解放されるためだけでなく、システムの奴隷からも一瞬でも解放されるための唯一の有効な手立てなのである。すべてのシステムのすべてを明示すること。宇宙の成り立ちや原子の動向、自然生態の実際から本質、各種の言語の仕組みから社会・文化の秩序・規則・現象、人間という生体の研究、思考や欲動の実質、動植物の淘汰から行動など、すべてのシステムのすべてを明示すること。あらゆる記号の意味作用を読み取ること。すべてのシステムを規制しているコードのすべてを明白にすること。そして、誰も表現し得ない場、誰も物語ることのできない時空間、まさに、そんな不可能な磁場を用意し準備すること。何も意味しない場、物語も表現も存在し得ないような磁場。物語も表現も一瞬で凍り付き、空白化し、無となり、物語も表現も存在し得ないような、どことも知れない場。誰もが沈黙を強制されてしまう強引で強力な磁場。何も物語らない物語、何も表現しない表現、何も物語れない物語、何も表さない表現、そんな不可能な存在を誘い出そうとする不可能な試み。そんな不可能な試みであり、限りなく無に近い何物かであり、原理的で構造的な視線に基づくであろう磁場。そして、誰もが当然で自明の理として無意識に繰り返す同じ物語、類似した表現のすべてを覆し、沈黙へと至らしめること。


【意味をめぐって】
 だが、改めて問いたい。すべての事象は、どうして、必ず意味してしまうのか、意味せざるを得ないのか、と。例えば、人は、どのような事象に遭遇しても、必ず、その意味を読み取ろうと悪戦苦闘する。誰もが、それが何を意味しているのかを探り当てようとせざるを得ないようなのだ。つまり、人という生物の前にあって、すべての事象は、意味付けされてしまわない訳には行かない。たとえ、路上に転がる単なる小石だろうと、切断されて草の上に捨てられた人の耳だろうと、猫の尻尾の向きだろうと、隣人の尻の辺りから立ち上って来た臭い匂いだろうと、その意味を考え出し、無理矢理にでも意味を与えようとする、それが人間なのである。しかも、意味付けが、どうしても上手く行かない場合でも、どうにかして意味付けようとするだろうし、そうでなければ、ただ自分には、その意味を理解できないと断念するか、無意味というレッテルを貼り付けて安心する、それが人間という生物なのだ(要するに、どのような意味付けであれ、そこでは意味化されてしまわざるを得ない)。確かに、動物などの生物でも周囲の事象についての意味を判断しようとするだろうが、彼らの対象となるのは、あくまでも彼らにとって必要な事象のみに関してに過ぎない。天候であるとか、食べ物であるとか、天敵であるとか、彼らの本能にプログラムされているであろう事象の意味にしか関心がないと言っても過言ではない(要するに、生のゲシュタルトが全うされているのである)。人間だけが、あらゆる事象の意味を考え、意味付けをし、意味の秩序を構築し、意味の階層を積み続けるのだ(まるで賽の河原の死んだ子供やギリシア神話のシジフォスのように、意味という小石を積み続ける)。だから、すべての事象は、どうして、必ず意味してしまうのか、意味せざるを得ないのか、という問いの答えは、そこに人間が関与しているからであると言うしかないことになる。すべての事象は、それぞれのルール(や意志?)に従って、全なる調和として、ただ単に、そこに存在しているだけなのであり、人間だけが、あらゆる意味を類推し、意味付け、階層化し、秩序化すると言わねばならない。では、意味とは何か。それは、人間が関与するからこそ生まれる記号の体系であり、事象の内容である。では、意味とは何によって成立するのだろうか。すべての事象が意味してしまい、意味付けられてしまうのは、人間が関与するからに他ならないが、それらの意味を成立させ、支えているのは、コードに他ならない。つまり、すべての事象が存在し、意味してしまい、意味付けられてしまうのは、コードが、すべての事象の存在を意味を成立させ、支えているからに他ならない。例えば、1つの記号とは、複雑に絡み合ったコードの連鎖・交錯上の1つの結節点であって、そこでは、コードとコード、記号と記号が、主導権をめぐって常に攻め立て合う空虚な闘争の場なのである(例えば意味という記号は、パラディグムとして「イミ」と「シミ」、「キミ」「ビミ」「ウミ」「イギ」などの他の記号群と常に優越をめぐって闘争を繰り返しているのだ)。すべての事象は、まるでそれらが自由で、とらわれのない思考や行為の配置であるかのような錯覚を煽り立てているけれども、本当は、すべての事象を規制し、存在を可能とさせているコードによって、束縛も拘束もされている不自由な何物かに他ならない。だから、あらゆる事象が常に意味してしまい、意味付けられてしまうのは、まさに、コードにより規制され、拘束されているからなのである。更に厳密に言えば、すべての事象が存在するのは、コードが基盤となっているからであり、すべての事象が常に意味してしまい、意味付けられてしまうのは、人間が、コードにより支えられた体系としての言語(言語学で言うラングに該当するだろう)を基盤とし、その枠組みの内で思考し行為し意味付ける生物だからである。そうだとすれば、人間が常に意味を求め、意味付けせざるを得ないのは、まるで同語反復の文章のようだが、人間が、コードにより支えられた体系としての言語を基盤とし、その枠組みの内で思考し行為し意味付ける生物だからなのである。つまり、言語という意味の体系の枠の中に人間が存在しているからこそ、すべての事象は意味してしまい、意味付けられてしまうのである。極論すれば、すべての事象が意味してしまうのは、言語という体系が存在するためなのだ。まさに、「始めに言葉ありき」なのであり、厳密には「徹頭徹尾すべてにおいて言語あり」なのである。言語が存在するからこそ人間が存在し得る。だから、人間は、意味から脱け出ることはできない。なぜなら、意味から脱け出ることは、言語を捨て去ることと同義であり、人が言語を捨て去る時、それは人が人間ではなくなる時を意味するからである。だから,人間は、絶対に意味の外部へは出られないだろう(意味の外部を想起することは可能かもしれないが)。同語反復的に記せば、言語そのものが人間であるからだ。そう、人間は、意味の外へは出られない。と言うのは、人は、意味=物語という言語の大海に閉じ込められた小さな魚群に過ぎないからだ。意味=物語の言語の大海の外に、どんな空が、どれだけ自由で広大な宇宙が拡がっているのか、意味=物語の言語の大海の中の小さな魚群には知る由もない。例えば、意味=物語という言語の大海の中の小さな魚群が、意味=物語の言語の大海の外部へ出る時があるとすれば、それは魚群が魚群ではない別の存在に変貌することに等しいだろう。それは、人が言葉を捨てて別の存在に生まれ変わるということであり、進化もしくは退化の臨界点である(例えば、インターネットに代表されるコンピューターによる情報空間が、どの程度のレベルで、この点に関与・影響するのかについては留保するとしても)。だから、人が意味=物語の言語の大海に安住する限りは、物語は永遠に終わらない。そう、意味=物語は永遠に不滅だ。だが、果たして、本当にそうだろうか。人は、このまま永遠に意味=物語の奴隷に甘んじ続けるのだろうか。


【システム、コード、意味、その撹乱をめぐって…】
 システム、コード、意味。
 人は、文化の、そして神話の奴隷だ。では、それらの文化を、幾つもの神話を創り出したのは、一体、何者なのか。それは、1人1人の人間たちの総体が集合することによって自ら創り出すことになった共同幻想だ。人は、自ら創り出した文化や神話に無意識に束縛・拘束されて、身動き1つ取れずに、文化の、そして神話の奴隷に陥っている、陥り続けている。では、その共同幻想とは何か。端的に言えば、それは、1人1人の人間たちの総体が集合することによって自ら創り出した観念の別名であり、言語や感情や意味や欲望やコードによって生成するネットワークの錯綜体の別名である。例えば、そこから脱け出すことはできないのだろうか。システム上に逃走の線を引き続け、逃げて逃げて逃げ回ること。しかし、システムは、神出鬼没だ。なぜなら、すべてがシステムによって生かされているだけでなく、すべての存在がそもそもシステムに他ならないからだ。あれもシステム、これもシステム、システム、システム。人も何もシステムの外へは出られない。システムからは脱けられない。では、どうすれば良いのか。例えば、そんな不毛な問いかけを引き延ばして、有耶無耶にすること? あわよくば、システムを転覆させてしまうこと、もしくはシステムの裏をかくこと? しかし、ただ単に裏をかくだけでは、ただの応急処置でしかないだろう。なぜなら、システムの内部でシステムの裏をかくことなど不可能だからだ。それは、裏をかいたと錯覚しているのに等しい。だから、まずは、人は常に意味の内部にしかいられないことを認識した上で、自明の理として跳梁跋扈している、ありとあらゆる意味の枷を対象化し続けること。意味の内部で、自分自身がどのようなコードにより支えられているのかを見極めようと常に努めること。可能なら、すべてのドクサを白日のもとに暴き出し、並べ、そして、それらを超え、横にずらし、パラドクサの運動を引き起こしてやめないこと。そして、何も意味しない場、物語も表現も存在し得ないような磁場、物語も表現も一瞬で凍り付き、空白化し、無となり、物語も表現も存在し得ないような、どことも知れない場、誰もが沈黙を強制されてしまう強引で強力な磁場を執拗に求め続けること。何も物語らない物語、何も表現しない表現、何も物語れない物語、何も表さない表現、そんな不可能な存在を誘い出そうと試みること。すべての意味のすべて、すべてのコードのすべてを視つめようとする原理的で構造的な視線に基づく磁場。そして、誰もが当然で自明の理として無意識に繰り返す同じ物語、類似した表現の全てを覆し、沈黙へと至らしめること。そのような真摯な目論みの幾つもを常に持ち続け、実現へ現前へと具体化する行為を繰り返し続けてやめないこと。「私たちは常に意味の檻の中にいる」ことを常に意識して生きること、意味の檻の中で何が可能で何が不可能かを常に問うことが求められていると言えるだろう。意味の檻の中でしか、何も始められないし、何も始まらない。まさに、これらの思考や行為の営為の総体こそが、あまりにも苦しく、心許ない結論かもしれないが、私たちに残された、かろうじて有効な手立てなのだ。人は常に意味の内部にしかいられないことを認識した上で、自明の理として跳梁跋扈している、ありとあらゆる意味の枷を対象化し続けること。意味の内部で、自分自身がどのようなコードにより支えられているのかを見極めようと常に努めること。可能なら、すべてのドクサを白日のもとに暴き出し、並べ、そして、それらを超え、横にずらし、パラドクサの運動を引き起こしてやめないこと。そして、何も意味しない場、物語も表現も存在し得ないような磁場、物語も表現も一瞬で凍り付き、空白化し、無となり、物語も表現も存在し得ないような、どことも知れない場、誰もが沈黙を強制されてしまう強引で強力な磁場を執拗に求め続けること。何も物語らない物語、何も表現しない表現、何も物語れない物語、何も表さない表現、そんな不可能な存在を誘い出そうと試みること。すべての意味のすべて、すべてのコードのすべてを視つめようとする原理的で構造的な視線に基づく磁場。そして、誰もが当然で自明の理として無意識に繰り返す同じ物語、類似した表現の全てを覆し、沈黙へと至らしめること。そのような真摯な目論みの幾つもを常に持ち続け、実現へ現前へと具体化する行為を繰り返し続けてやめないこと。「私たちは常に意味の檻の中にいる」ことを常に意識して生きること、意味の檻の中で何が可能で何が不可能かを常に問うことが求められていると言えるだろう。意味の檻の中でしか、何も始められないし、何も始まらない。だから、私たちに残された唯一の手立ては、システム、コ−ド、意味、その撹乱を目論むこと、これしかない。システム、コ−ド、意味、その撹乱とは、この小論の中で今まで何度も何度も執拗に繰り返して言説化してきた思考や行為の営為の総体に他ならない。だから、結論も、結論や実践へ至るためのヒントも、もう既に充分に言説化してきた筈だ。私たちは、だから、慌てず落ち着いて、システム、コ−ド、意味、その撹乱を目論めば良いのだ。世界のすべてに対して、宇宙のすべてに対して、今、システム、コ−ド、意味、その撹乱を突き付け続けること、まさに、それだけが、私たちに残された唯一の手立てなのである。システム、コ−ド、意味、その撹乱。一歩ずつ、着実に、システム、コ−ド、意味、その撹乱を目論み、実践すること、今、ここから。手立ては、それしかない。

 システム、コ−ド、意味、その撹乱へ。